二百年のくちづけ



 目をつぶりねま。
 それが、ベルギーが兄のオランダから教えられた、恐怖から逃れる方法だった。
 たとえば、影から邪悪なものが躍り出そうな夜道を歩くとき、怖い夢を見て兄に泣きついたとき、スペインに怒られて大きな身体の影に隠れるとき、兄は彼女に決まってそう言い聞かせた。
 言われるがままにまぶたを閉じ、恐怖の源となる視覚を断ち切れば、とくとくと弾む自分の鼓動が彼女を落ち着かせた。間近にある兄の存在も、無視できないくらいの安堵をもたらした。
 だから、オランダがスペインの家を出て行くときも、ベルギーは目をつぶっていた。
 二度と会えなくなるわけではない。いつかまた一緒に暮らせるときがくる。たとえ離れ離れになったとしても、兄妹の絆はなくならない。
 けれど、見えない縄がきつくきつく彼女を縛り上げたまま、時間ばかり流れて。

 ――そして今、ベルギーは、恐怖がまた新たに自分を束縛するのを感じていた。
 いつかまた共に暮らしたい、という悲願は確かに果たされた。彼女がオランダの領土となることによって。
 数百年ぶりに、息の吹きかかるほど近い距離で見つめ合った兄は、彼女の知っているその人とは別人のように見えた。
 元々丈夫そうだった身体はさらにたくましく引き締まり、共に暮らしていたころの少年の面影はない。三白眼の目つきはさらに険しくなり、彼女の瞳から入りこんで全身を切り裂いてしまいそうなほど鋭い。
 怖い。おそろしい。逃げ出したい。
 ……けれど。
 翡翠の、同じ色の瞳。それがまっすぐにこちらを捉えているという事実。熱のこもった眼差し。それは果たして、「妹」に向ける類のものなのだろうか。
 二百年もの間、離れ離れだった。ずっと、また元のようにできたらいいと思っていた。
 ベルギーが胸に秘めていた想いをオランダも同様に感じていたとしても、なんらおかしいところはない。
 なぜなら、彼女たちは血と感情を共有する兄妹なのだから。
「おにい、ちゃん」
 彼女の声がかすれ、身体がふるえる理由を、兄はどこまで知っているのだろうか。
 ――二百年。
 二百年もの間、離れ離れだった。日ごとに増していく家族愛が変化するのに、充分すぎるほどだ。
「見いひんで」
「ベルギー」
「うちを、そんな目で、見いひんで!」
 ――怖い。
 気づいてしまうのが。見抜かれてしまうのが。兄にも、彼女と同じものがあると知ってしまうのが。
 存在を身近に感じるだけで、肌が燃え上がる。かすかな呼吸の音すら思考を乱れさせる。
 ふれたい衝動をこらえきれない。確かめたい。頬の弾力を、肩の厚みを、胸の鼓動を。
 自分の感情が暴走し始めているのがわかっているのに、自分ではどうすることもできない。
「目をつぶりねま」
「な、なんで」
「目をつぶりねま」
 言葉の圧力に負ける形で、ベルギーは目を閉じた。
 暗闇に一人。……違う、兄がいる。幼いころは心を安らげたことがうそのように、息が苦しい。
「これからお前になにがあっても、ほれは俺のしたことやない」
「……お兄ちゃん?」
「ほやさけベルギー、お前はずっと目をつぶっときね。……お前は、なんも知らんでええ」
 オランダの手が、閉じた瞳をさらにおおった。
 まるで、悪魔のもののように冷たい手。
「二百年は、長すぎたんや」
 唇に、火傷しそうなほどの温もりが、ふれる。
「――」
 ただただ、言葉もなく、閉じたまぶたから涙が一筋流れた。


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10/09/12 初出(ブログ)
14/03/27 改稿再録