記憶を招く手のひら



『イタリア』
 あどけない、少年の声。何かをねだるような、何かを押し隠しているような、哀切に満ちた声。
『強い国を作ろう』
 差し出された手のひらは、今の自分に比べればずいぶん小さくて。それでも深い青の瞳は真剣な色で、どこか哀しい。
 その手を、――

 最初に見えるのは天井で、ああまたあの夢を見たんだな、と苦く嘆息した。
 ふと今日の日付を思い出す。あの少年が「消えた」とされる日まで一週間足らずだった。だからあの夢を見たのだろうか。
 時計を見れば、起きるにはかなり早い時間だった。だが眠る気は起こらず、ベッドから起き上がってキッチンを目指した。
 ひんやりした床で、ぺたぺたと足音が鳴る。それはとても幼く聞こえた。低くうなる冷蔵庫から水を取り出し、流しこむ。昔遊んだ川と同じ温度だった。
 ――あの子と一緒に遊んだ。
 そのとき、ある少年に恋をしていた。気づいたのは、離れてから何百年も経ってから、何もかもが終わってしまってからだった。
 だけど、あのときに気づいていたとしても、きっと手を取ることはできなかった。未来には破滅があったから。
 ――昔もよくつまみ食いしたっけ。
 目についたリンゴを取り出し、そのままかじる。果汁が滴って、そででぬぐった。我ながら子どもっぽいしぐさだと思う。
 ――ねえ。俺は何も変わらないよ。
 今はあの家からは出てしまったが、未だにパスタは好きだ。絵も描く。それにずっと泣き虫だ。
 ――でも変わったこともあるよ。
 友だちが二人もできた。声変わりだってきた。身長も伸びた。もし会っても、多分分からないのではないだろうか。
 もう一度会えるなら。
 会えるなら。
「……」
 リンゴをかじる。溢れた甘い汁を吸い上げる。零れたものは舌で舐め取った。
 ――一緒に絵を描こう。俺の自慢の料理を食べてよ。
 それから、それから。
 甘いはずのリンゴが急にしょっぱくなった。口直しにと二口三口かじると紛れてしまう。
 おかしいな、と思う。別れた日の夜に散々泣いた。今までも何度となく泣いた。飽きもせずに同じことを繰り返している。
 ――夢の中でくらい、手を取ればよかった。
 きっとあの少年は驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑ってくれる。照れたように手を握って。
「……」
 胸の苦さは、思慕だろうか、悔恨だろうか。いや、どちらでも変わりはない。
 あの少年はもういない。どんなに想っても悔いても、その事実は変えられない。だからこそ、夢の中では手を取るべきだったのに。
 またあの子は夢に出てくるだろうか。
 会えたなら、きっと彼の望みを叶えよう。未来に破滅と絶望があっても、夢の中なら怖くない。
 ――それに、俺一人じゃない。頼もしいあの子も一緒にいてくれる。
 何百年前の「消滅」の日まで、もうすぐだ。


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09/04/08