プライスレス・タイム



「ドイツは心配性すぎますよ」
 非常に賢明な判断だと思います、という言葉は飲みこんだ。わざわざ自分から不興を買う必要なんて、どこにもない。
「そうですね」
 だから、とりあえずうなずいた。

 休日、家でのんびりしていたら、ドイツから電話がかかってきた。彼の話は理路整然としていたからそのまま引用すると、こういうことだった。
 オーストリアがどうしても買い物に行きたがっている。同行したいが、あいにく自分は仕事で手が離せない。代わりについていってくれないか。
 その電話を受けたとき、つい苦笑してしまった。オーストリアさんはかなりの方向音痴だから、一人で外出させるとどこに行くか分からない。彼の心配はよく分かった。
 もちろん、私がその依頼を断るわけがなく、こうして今に至る。

 オーストリアさんの買いたいものは、ピアノの楽譜だった。彼のレパートリーは数えきれないくらいあるけれど、それでもまだ飽きたらないらしい。
「時代によって音楽は変わりますから」
 音楽を語るときの彼はいつも以上に生き生きしている。眼鏡の奥にある紫の瞳が輝く。話の内容は難しくてよく分からないけれど、楽しそうな様子を見られるだけで満足だった。
 二人で音楽店に入る。カウンターの大きなレコードが真っ先に目に止まった。流れているのは十年くらい前に流行った曲。その隣で白髪の老人が肘をついていた。
「こんにちは」
 オーストリアさんが声をかけると、店主であろう老人は顔をあげた。やあまた来たのかい、と親しげな口調で返事がくる。二人はずいぶん仲がよさそうで、なんだか居心地が悪い。
 落ち着かない気分で店内をきょろきょろしていると、そのお嬢さんには初めて会うね、といきなり言われた。
「私の友人です」
「そうかい。初めまして」
「あ、……初めまして」
「お嬢さんもピアノを弾くのかい?」
「いえ、私はただのお供です」
「じゃあ退屈だろう。レコードでも聞くかね」
 どうしよう、とオーストリアさんに視線を向ける。気がついた彼は、笑みとともにうなずいた。貴方のお好きなように、瞳がそう言っている。
「ではお言葉に甘えて」
 彼が楽譜を選ぶ間、私はレコードを聞いた。知り合いにレコード店を経営する人がいるとかで、ジャンルも年代も豊富だった。
「この曲、昔よく聞きました」
「ワシが子どものころのだよ」
「えーと、祖父母が私の小さいころに聞かせてくれて」
 慌ててごまかす。実は私は国で、あなたの何倍も長く生きてます、なんて言えない。
 店主は気にした様子は見せず、そうかい、と鷹揚(おうよう)にうなずいた。セーフ。
 オーストリアさんの様子をうかがうと、楽譜をためつすがめつしているところだった。ときどき指を動かしてるのは、弾いたらどんな感じになるのかを想像してるのかもしれない。
「彼はどんな演奏をするのかね?」
「えっと」
 ピアノを奏でる姿を頭に描く。白と黒の鍵盤を走る長い指。音が空間を埋め尽くす錯覚。一つの物語を読み聞かせてもらっているようだけれど、瞬き一つで消えてしまいそうな繊細さ。
「すごく綺麗で、優しい、胸がぎゅっとなる演奏です」
 我ながら抽象的すぎる。だけど、相手は目を細めた。
「お嬢さんは彼の音色を愛しているんだね」
「え……」
 顔が熱くなる。手で押さえるとじわりとぬるい。絶対真っ赤になってる。でもなんだかこそばゆくて、恥ずかしくて、それからちょっぴり嬉しい。
「そう、です」
 うなずいたとき、肩を叩かれた。
「ひゃああぁっ」
 素っ頓狂な声をあげてしまう。振り返ると、驚いたような呆れたような表情のオーストリアさんが私を見ていた。
「ごめんなさい」
「驚かせた私も悪かったです。すみません」
 彼は苦笑すると、持っていた楽譜を店主に渡した。会計のあと、「では行きましょうか」と促した。
「はい。……レコード、聞かせてくれてありがとうございました」
「いやいや。また来ておくれよ」
「はい」

 帰り道は人通りが多かった。はぐれないようについていくだけで精一杯。あたふたしながら歩いていると、手を握られた。
「こうしていれば大丈夫です」
「……はい」
 はぐれる心配はなくなっても、私が大丈夫じゃない。
「今日はずいぶん迷惑をかけましたね」
「そんなことないです!」
 声に力がこもる。この機会を作ってくれたドイツにはどれくらい感謝しても足りないくらい。
「何かお礼をしましょう」
「え、えっと」
 何か欲しいのあったっけ、と思い起こす。綺麗な服とか美味しそうな食事とか、色々浮かんだけれど、なぜか全部くすんで見える。その理由に気づいて、唇に笑みがのぼった。
「そうですね、しいて言うなら」
「はい」
「またあのお店に行くときは、私を呼んでください」
「……それでいいんですか?」
「充分です」
 分かりました、とうなずくオーストリアさんは不思議そうだった。手を軽く握り返して、満ち足りた気持ちを味わう。
 なんにもいらない。
 だって、こうしていられることが私の欲しいものだから。


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09/04/14

rodiniaの清水ヤスさんがこの話のイメージイラストを描いてくださいました!こちらからどうぞ!
とっても素敵なイラストですよ!本当にありがとうございます!