パーソナルスペース



 イタリアには疑問があった。
 彼の主人であるオーストリアと、同じ召使い仲間のハンガリーについてである。
 屋敷の掃除に励んでいた彼は、二人が話しているのを見かけた。垣間見ただけでも、ハンガリーが笑みを浮かべ、あのオーストリアでさえ表情を緩めていたのは分かった。
 彼が不思議でならないのはそこなのだ。
「どうしてもっと近くにいかないのかな」
 思いついて神聖ローマに尋ねたところ、「どういうことだ?」と聞き返してきた。
「二人とも楽しそうなのに、すごく遠いの。ボクならもっと側にいくのに」
 それは奇妙な光景として記憶に焼きついていた。手を伸ばしても届かなさそうな隔たり。二人は明確に相手と自分を区別し、不可視の領域から一歩も出ず、そして立ち入らなかった。
 おだやかな空気でありながら、警戒して間合いを測るような。
「どうしてかな。神聖ローマ、わかる?」
「そうだな」
 神聖ローマは少し考えたようだ。
「『おとな』、だからだろ」
 その回答が幼い彼に完全に理解できたわけではない。恐らく、発言した本人もそうだろう。
 けれどもっともらしく聞こえたので、とりあえず納得することにした。


 そんな問答があったことを忘れかけていたある日。
 水を汲みに来た彼は、ハンガリーが井戸のそばに座りこんでいるのに気づいた。
「ハンガリーさん」
 何気なく声をかけると、ビクリと肩を揺らす。振り返った顔は涙で濡れていた。
「どうしたの」
 おろおろと尋ねると、彼女はやや乱暴に目をこする。涙は消えたが、鼻もまぶたもまだ赤い。
「どこか痛いの?」
 彼女は無言で首を振った。亜麻色の髪が肩をこすった。どうすればいいのか分からずにうろたえていると、彼女は手を差し出す。
「水、汲んであげる」
「う、うん」
 桶を渡すと、彼女は時おりしゃくりあげつつ、井戸から釣瓶を引き上げた。その間にかける言葉を探してみたがどうしても適当な文句が見つからない。
「はい」
「ありがとう……。大丈夫?」
「平気よ」
 そうは言うが、とてもそうは見えない。
「何があったの?」
「オーストリアさんとケンカしたの」
「えっ」
 意外な言葉にただ驚く。そんな姿はとても想像できなかった。
「私が悪いの。召使いなのに、でしゃばったから」
「でも」
 泣かせた時点でオーストリアが悪いのではないか、と彼は思う。だがそれはうまく言葉にできなかった。
「大丈夫だから。お仕事サボると怒られちゃうよ」
 そう言われてはうなずくしかない。それでも気がかりで、何度も振り返り屋敷に戻った。

 オーストリアとハンガリーのことを考えながら掃除をしていると神聖ローマが廊下の向こうからやってきた。
「よかった、会いたかったの」
「俺に?」
 神聖ローマは期待に顔を輝かせた。いつもならば、目が合うなりおびえられるか逃げられるかのどちらかだったのだから無理もない。
「あのね、さっきハンガリーさんがね」
 イタリアはつたない言葉で先ほどの一部始終を聞かせる。話しながら状況を整理した。聞き手がしょぼんと表情を曇らせたが、気にしている余裕はなかった。
 一通り話し終えてつぶやく。
「なんでケンカするのかな」
 考えても分からない。泣きそうだった。和やかな二人と、涙をこぼすハンガリーが交互に浮かぶ。
「二人とも『おとな』なんでしょ? なのになんで」
「それは……」
「二人とも、相手がキライになっちゃったの?」
「そういうわけじゃないと思うぞ」
 声音は確信に満ちていたが、それはますます彼を混乱させた。
「わかんないよ」
「誰でもケンカすることくらいある」
「だけど、よくないよ。悲しいもん」
 ぐずると、あーもう、と神聖ローマがうなる。びっくりしているといきなり歩き出した。慌てて後を追う。
「どこ行くの?」
「本人に直接聞けばいいだろ。『キライになったんですか』って」
「そっか、神聖ローマすごい」
 神聖ローマの顔が赤らむ。だが目先のことで精一杯の彼はそのことに気づかなかった。

「ハンガリーさん、オーストリアさんのことすき?」
「え」
 彼女はきょとんとした後、目を白黒させた。よそを向いて曖昧な言葉を発する。
「えっと、それは」
「キライなの……?」
 そんなの悲しい。涙目になりながら追及すると、彼女は苦笑し、かがんで目線を合わせると、彼の頭をなでた。
「そんなことないわ。オーストリアさんのことはすきよ」
「ホント?」
「うん」
 だろ、と言わんばかりの表情で神聖ローマが視線を送ってくる。ただ感心するしかなかった。
「じゃあどうしてケンカしたの?」
 問いを重ねるとうつむく。表情が読めなくなった。
「仲よしだからケンカしちゃうこともあるの」
「どういうこと?」
 そうねえ、と彼女は宙を仰いだ。それから彼と隣の神聖ローマに目を向ける。
「例えば、ここにパスタが二種類あるとするでしょ」
「うん」
「それで、どっちか選ぶとき、仲よしだから同じのが欲しくなることもあるの。そういうことない?」
「あるよー」
「そんなときどうする?」
 ちょっと考えて、彼は名案を思いつく。
「二人で半分こすればいいよ!」
 元気よく言うと、彼女は不意を突かれたようだ。
「そう、ね、そういう方法もあるわね」
 やがてハンガリーは微笑した。
「そうするのが一番ね」
「でしょ?」
「ありがとう」
 なぜお礼を言われるのかは分からないが、悪い気はしない。それに、彼女がオーストリアを嫌っていないことが分かって嬉しい。
「次はオーストリアのところに行くぞ」
「待って、神聖ローマ」
 後を追おうとすると、ハンガリーが引き留める。
「もしかしてオーストリアさんにも同じこと聞くの?」
「そうだよ」
「ちょっとそれは……」
 あからさまに顔色を変える。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
 彼女は渋面で付け足した。
「私が泣いてたことは秘密にしてもらえる?」
「いいよー」

「オーストリアさん、ハンガリーさんのこと、すきですか?」
 尋ねると眉をひそめられた。それにひるんでいると神聖ローマが助け船を出す。
「ケンカしたんだろ」
「ケンカ?」
 ああ、と声をあげる。
「確かに少し口論がありましたが、それが?」
「ハンガリーさんのこと、キライになったんですか?」
「嫌いに……ですか」
 オーストリアは顎に手を当てた。悪い返事を想像してしまい、ハラハラする。不安で泣いてしまいそうだ。
 すると、肩に何かが乗った。神聖ローマの手だった。目線はよそに向けながら、引き結んでいた口をゆるめ、声を伴わずに唇を動かす。
『大丈夫だ』
 そう読み取れて、泣きそうな気持ちがどこかに行ってしまった。大きくうなずくと、考えがまとまったらしいオーストリアが口を開く。
「嫌いではありませんよ」
 ほっとして力が抜ける。
「じゃあすきなんですね!」
「そういうことになります」
 肯定をもらい、彼の頭は一気にお祭り状態になる。
「よかった! ハンガリーさんが泣いてたから心配だったんです」
「おい、それは」
 言われて思い出す。そういえば秘密にするように言われていたのだった。慌てて口を押さえても遅い。
「ハンガリーさん、泣いてないですよ、秘密にするように言われてないですよ」
 神聖ローマはため息をついた。オーストリアも呆れた顔をしている。
「大体分かりました」
「あの……」
「ところで、貴方に言いつけた掃除はもう終わったのですか」
「あっ」
 言われて思い出す。二人のことが気になって頭から抜け落ちていた。
 その反応で察したのか、オーストリアは目をつり上げる。
「まったく貴方という人は! 今すぐやって来なさい!」
「はい……」
「召使いに心配されるとは」
 オーストリアがしかめ面を作ると、神聖ローマは短く切り返した。
「早く仲直りすればいいだけの話だ」


 数日後、イタリアが屋敷の掃除をしていると、ドアがわずかに開いた部屋から声が聞こえてきた。なんとなくのぞいて、彼は笑みを浮かべる。
 そこにいたのは彼の主人と召使い仲間だ。二人の空間は柔らかな親密に満ちて、手をのばせば触れられそうなほど近い。
 彼は幸せな気分でその場を離れる。この気持ちを伝える相手は、もう、決まっていた。


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Die Orchester von Blumen(企画終了)に参加した作品です。
09/06/15