星空と記憶
会議場から出ると、満天の星がハンガリーを出迎えた。
綺麗だとは思うが、会議に費やされた時間のせいで素直に感動できない。
本当なら夕暮れどきには終わるはずだったのだ。長引いた理由はいつもと同じ、つまらない言い争いだ。
開催主であるオーストリアの苦労を思うと会議を荒らしてはいないものの申し訳ない気持ちになる。一言声をかけようと思ったが、忙しそうだったのでやめた。
「ハンガリーさん」
声の方を向く。イタリアだった。いつものようにお気楽な笑みを浮かべている。
「これから打ち上げ行こうかって話になったんだけど、行く?」
イタリアの背後にはさっきまで丁丁発止とやりあっていたメンバーがいる。酒の席ばかりでなく、会議でも仲良くやってくれればいいのだが。
彼女は今の気分と体力を秤にかけた。答えはすぐに出る。
「またにするわ」
少し疲れていた。あまり騒ぐ気分にならない。騒いで疲れを忘れるだけの体力もない。
「そっか、じゃあまた今度ね」
イタリアは残念そうにしたが、すぐに気を取り直した。この切り替えの速さはなんなのだろう。
「ええ。誘ってちょうだい」
ほとんどのメンバーが参加するようだ。会場になる居酒屋に同情しつつホテルに向かう。
女が一人で歩くにはあまりにも寂しい時間帯だった。腕に覚えはあるが、さすがに不安で歩調が早くなる。
とにかく早くベッドにうずもれたい。近道に公園を突っ切ることにした。抜ければホテルのある大通りに出る。
その選択をすぐに後悔した。
「だからボコってやったんだよ」
「お前ケンカっ早いよな」
素行のよくない者がたまるのは、どこの国でも人気(ひとけ)のない公園であるらしい。足早に通りすぎようとすると後からついてくる。
「こんばんは〜」
「どこ行くの」
無視して歩き続ける。こういう手合いは相手にしないのがいい。
「待てよ」
肩をつかまれた。振り切れずに足を止めてしまう。暗がりにだらしない格好の男たちが立っている。
話しかけられたが沈黙を貫いた。だんだん向こうはイライラしてきたようだ。口調が荒っぽくなる。
「お高く止まってるつもりか」
立ち止まらなければよかった、と今さら思う。だが遅い。胸と顔に集中した視線がべたついて皮膚が粟立った。
男たちの下卑た笑いを見て、彼女は拳を握る。かつての力はないが、護身はできる。
「無視したおわび、しろよ」
胸元に伸びてきた手を反射的に振り払った。相手がひるんだので大通りに向けて走る。だがヒールで足がもつれて転んだ。
追いついた男たちが彼女を囲む。目がギラギラと不穏な光を帯びている。
腕をつかんできた一人の鼻柱に拳を振り下ろす。いきなりの攻撃を向こうは避けきれずにモロに食らう。多分鼻血が出ている。
背後の男には渾身の力で鳩尾に肘鉄を入れる。短くうめいてその場にかがんだ。
立ち上がろうとしたそのとき、両手を捕まえて身動きができなくなった。一人が身体の上に馬乗りする。
「大人しくしろ」
頬を強く叩かれて一瞬思考が途切れた。口の中に苦いものが広がる。
その間に土で汚れたシャツのボタンを引きちぎられる。暗くてもはっきりと下着が見えた。
「……!」
ありったけ叫べばきっと大通りまで聞こえるはずだと分かっているのに、声が出ない。大げさに震えてかすかに音を作る。
男の手が肌着をまくる。どうしようもなく汚らしく見えて目をつぶった。恐怖と嫌悪が喉元で渦を巻く。
――オーストリアさん!
「何してんだ」
あらぬ方から声がかかる。助けか男たちの仲間か、判断しかねて身体が緊張する。
「邪魔すんな」
ぶつかるような、こすれるような音が耳に届く。状況が分からずますますきつく目を閉じる。
「何しやがる!」
「うるせえ!」
音はしばらく続き、いきなり身体の上から男がどいた。恐る恐る目の周りの筋肉を弛緩させる。
男たちは倒れるかうずくまるかどちらかの状態だった。立っているのは一人だけだ。こちらに近づいてくる。不安で息ができない。
「最後のは逃げやがったか」
街灯にその人の顔が照らされる。あ、と短く息を飲む。
「プロイセン」
腐れ縁の幼なじみだった。やられた様子はない。さすがは元軍事国家と言うべきか。
「なんで」
「帰るのが同じ方向なんだよ。なんかヤバそうなことになってたから」
今の格好を思い出して前をかき合わせる。シャツのボタンは全部ダメになっていた。
気に入ってたのに、と腹が立ったが、今倒れている男たちには近づきたくない。
「着ろ」
明後日の方向を見ながら、彼はスーツのジャケットを差し出した。受け取ってはおる。大きくて肩幅が合わない。そでも余った。
「大丈夫か?」
なんとかうなずく。ほっとしたら泣きそうになった。抑えても肩が震える。
「……あいつら、もっと殴ってやろうか」
低い声。感情が読み取れない。だからこそ激しいものを感じた。
彼は報復を示唆する。感情をうねらせて。
「どうする」
憎くないはずがない。彼がいなければ確実に慰み者になっていた。
「……早く帰りたい」
報復は魅惑的だったが、それよりも平穏が恋しい。
そうか、と答えた彼はいつも通りだった。
「送ってやる」
「……うん」
一日に二度も同じ目に遭うことはないだろうが、その申し出には正直ほっとした。
公園を抜けると大通りだ。賑やかな往来にちぢこまった心がほぐれた。落ち着いてくると、まだ礼を言っていないことに気づく。
「ねえ」
「なんだよ」
彼に向かってこういうことを言うのは慣れない。ジャケットを寄せた。
「あり、がと」
彼は驚いたように目を見開く。唇を震わせた。あー、と軽くうなる。
「気にすんな」
「うん、忘れる」
「……あー、……見ろよ、星が綺麗だぜ」
下手な話題転換だと思いながら空を見上げる。ダブつくそでを握りしめる。
彼の体温を残したジャケットの生ぬるさと、この星空だけを今夜の記憶にした。
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