地に歌を
「本当に『国』は存在したのですね」
少女は川の流れに手と布を浸していた。目線は水中の布にある。こすり合わせては汚れ落ちを確かめる。
首をかたむけると、耳にかかっていた髪が一房落ちた。
「実のところ、まだ信じられません」
男が近寄り、落ちた髪を引っかける。彼女は驚いたように藍色の瞳を見開いた。
「でも実際、俺は『フランス』として存在してるわけだからさ」
「それは、よく、分かっています」
彼女が濡れた手を振ると雫がはねた。それは狙ったように男の顔にかかる。
彼がたじろいだすきに少女は立ち上がった。川原の端の桶に洗ったばかりの服を入れ、持ち上げる。
川から吹く風に二人の髪が揺れた。彼女は後頭部に片手を当て、とかすように下ろしていく。
髪は肩ほどで途切れた。一瞬虚を突かれた表情を見せ、かすかな曇りを見せる。
「髪、長かったんだってな」
男が軽い調子で言うと、少女は表情を引きしめる。
「ええ。祖国のためですから」
「俺のため、なんて照れるな」
言葉の割に、表情に真面目さはない。
「そう言うのならちゃんとしてください」
彼女がにらむと男は苦笑した。持っていた桶をひょいと取り上げる。
「じゃあこれくらいはしないとな」
「貴方という人は」
「俺は国だよ」
「……もういいです」
野営地に向けて二人は歩き出す。男たちが汗を流しながら訓練に励んでいるのが見えてきた。
何人かは彼らに気づき、手を止めて挨拶をする。少女がきびきびと返事をするのに対し、男のものはかなりなおざりだった。
彼女の眉間にしわが寄っているのに気づき、男は慌てたように居住まいを正す。
「私は貴方のために戦っているのです」
何度となく繰り返した言葉を彼女は口にした。反省と満腹をないまぜにした男の顔を見て、ますます眉を吊り上げる。
「そう怒るなよ、せっかくの美人が台無しだ」
男は性懲りもなく、彼女の眉の間をつつく。返ってきたのはこれ見よがしのため息だった。
歩き続けて洗濯物が干されている原っぱに出る。何枚もの服が旗のように揺れている。
適当なスペースを見つけ、彼女は男の持つ桶から服を取り出し、しぼって広げた。隣と比べると一回り小さい。
引き結ばれていた唇がゆるやかに開かれ、音がこぼれた。それは歌だった。洗濯女たちが口に乗せるものである。
「歌、うまいんだな」
歌声がぴたりと止まる。少女は気まずそうに洗濯物に目をやった。落ち着かないように目が泳ぐ。
「もっと聞かせてほしかったのに」
いかにも残念そうに言う。真似るように男は鼻歌を奏でる。やや調子外れだ。
「……できません」
さまよう視線が男の顔に定まる。
「私は、神から与えられた己の使命を果たすことのみを考えなければいけないのです」
他のことにうつつを抜かすことはできません。そう告げる彼女の瞳は真摯だが、頬は残酷なまでに白い。
「ですから、私は」
「――君の使命って、なんだっけ」
男は少女の言葉をさえぎった。表情は飄々(ひょうひょう)としている。
「フランスを救うことです」
何を今さら、とばかりの口調だ。
「じゃあさ、歌ってくれよ。俺を救ってくれるんだろ」
「何を言って……!」
声を詰まらせた少女にウィンクが送られた。ほらほら、と急かす声までかかる。
「本当に、貴方という人は」
彼女は呆れ顔になった。だが、ゆっくりと唇を引き上げて笑みを作る。
風のような歌声が、野原に吹いた。
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09/05/30