妄想は掛流し



「ようこそいらっしゃいました」
 着物の女性が頭を下げる。きびきびしていながらもやわらかい動きは老練されたものだろう。にこりと笑うと、私とオーストリアさんをある一室まで案内した。
 木目の美しい卓でお茶をすすっているのは見慣れた人物だ。上向くたびに黒髪がさらりと揺れる。彼は部屋とこの上なく調和していた。
「どうぞお座りください」
 示された座布団の上に座る。正座はあまり慣れない。だけど、郷に入っては郷に従え、だ。
「ようこそ、我が国へ。長旅でさぞやお疲れでしょう」
「平気です。今回はお世話になります、日本さん」
「お力になれればよいのですが」
 そう言って、ひかえめに笑う。お茶を勧められた。飲みながら、なんとなく部屋を見回した。やさしげなアイボリーの壁、若草色の畳。まろやかでとろけそうな配色はほっとする。
 静かな時間が流れる。嫌な感じは全然しなかった。ゆるゆると心の強ばりがほどけていく。和室って不思議。
「美しい空間ですね」
 先に口を開いたのはオーストリアさんだった。正座姿がさまになっている。写真を撮りたいくらい。
「この旅館は国内一だと評判ですから」
 心なしか日本さんは嬉しそうな顔をしていた。やっぱり褒められればそうなるよね。
「ハンガリーさんのお国の温泉観光の参考になれば、嬉しく思います」
 ぐずぐずになりそうな気持ちを引き締める。そうだ、遊びに来たんじゃない。国のために来たんだもの。
 私の国は温泉観光が盛んだ。トルコの野郎の置き土産というのは無視するとして、ヨーロッパの各国から観光客がやってくる。
 だけど、最近は不景気のせいか観光産業が奮わなくなってきた。だから、質をあげて昔の活気を取り戻すべく、こうして日本さんのところに勉強しに来たのだ。
「協力してくださって、ありがとうございます」
「お気になさらず。こういうことはお互い様ですから」
「全く関係ない私まで誘っていただいて、よろしかったのですか?」
 最初は私だけが来るはずだった。私の国のことだから当たり前だけど。でも日本さんはオーストリアさんもご一緒にどうぞ、と言ってくれた。
「異国で女性一人は不安でしょうし、男女で着目点は違いますから、得るものは多いはずです。……ご迷惑でしたか?」
「そんなことありません!」
 力一杯否定した。隣で驚く気配がしてちょっと後悔する。でも事実だから。
 だって温泉だもの。湯けむりにけぶる白い身体、湯上がりでほんのりと赤みを帯びた肌、濡れた髪のつやめき、もうどれをとっても最高。温泉万歳。デジカメ持ってきてよかった。ファインダーがショートするまで、普段は見れないオーストリアさんの姿を激写しちゃうわよ! 日本さん超グッジョブ!
 ……って、ダメダメ、しっかりしなきゃ。遊びじゃないんだから。浮かれて本来の目的を忘れたら呆れられちゃう。
「まずは旅館を見て回りますか?」
「はい、お願いします」
 腰を上げて部屋を出る。
 木のにおいがした。甘いような清潔なような。プールに近いうちの温泉じゃこんな雰囲気は出せない。
 床はすり減ってはいたけど、逆にそこがいい。年月の流れを感じる。かすかにきしむ音も情緒を盛り上げる。
 そんな風に、普段ならめったに味わえない空気を堪能していたのに。
「日本」
 先導する日本さんに向かって、よお、と手を上げた男は。銀髪を短く刈って、赤の濃い紫の瞳をしたそいつは。まさか。そんな。
「プロイセン!?」
 ムードをぶち壊しにするような声を上げてしまう。私たちに気づいて、あっちも驚いたようだ。
「お前ら、なんでここに」
「それはこっちのセリフよ!」
 さっきよりも声を抑えた。間に挟まれた日本さんは困った様子で私とプロイセンを見ている。
「俺は日本と知り合いだから、ヒマだし温泉に浸かりに来たんだ」
「プロイセンさんには、文明開化の際にずいぶんお世話になりましたから」
 そういえばそうだった。色々世話とか焼いてたっけ。
「私たちは国の用事よ」
 遊びじゃない、と言外に臭わせると、ムッとした顔をする。もう国でもないくせに。
 話をまとめると、要するにダブルブッキングだった。宿の予約をするときに、日をずらしたはずが同じ日になっていたらしい。
 すみません、と小さくなる日本さんを見ていると、責める気にはなれなかった。わざとではないんだろうし。
「プロイセンさん、すみませんが、ハンガリーさんたちをご案内しておりますので、今はお相手できません。申し訳ございません」
「いいって、気にすんなよ」
 じゃあなんで涙目なのよあんた。まあ、日ごろの行いのツケが回って来たのね。ざまあみろ。そして、二度とオーストリアさんの周りをちょろちょろすんな。
 分かりやすく肩を落として、プロイセンは部屋に戻ろうとする。いきなりポンと手を打ったかと思うと、日本さんは明るい声を出した。
「プロイセンさんもご一緒に旅館を見学なさいますか?」
「へ?」「えっ」
 アホっぽい声とハミングしてしまう。みるみるうちにいい笑顔を浮かべる。かまってもらったのがそんなに嬉しいか。
「いいのか?」
「はい。ハンガリーさんたちはどうですか」
「絶対に――」
「まあ、いいのではないでしょうか」
 全力で拒否ろうとした矢先、あっけなくオーストリアさんは同意した。優しいにもほどがあるんじゃないでしょうか。
 オーストリアさんに逆らう選択肢は私にはない。猫背になりそうな背筋をぴんと伸ばす。国としての威信が出るように頑張りながら、「構いません」と答えた。


 旅館の中は広くて、歩き回って疲れた。だけどその分たくさん学べた。メモが黒くなっているのを見ると、充実感を覚える。
「ありがとうございました」
「いえいえ。お力になれそうですか?」
「それはもう!」
 それならよかったです、と日本さんは穏やかに笑う。オーストリアさんも安心したように息をつく。二人には心から感謝している。
 国に帰ったら真っ先にやることはこれ、それからこれ、とメモをさらに黒くする。なんだか興奮していた。新刊のネタを思いついたときみたい。
「日本、温泉はまだか?」
 後ろからの声がそんな気分に水をさす。イライラしながら振り返る。
「図々しい」
「俺は元々、のんびりしに来たんだよ」
「だったら部屋でゴロゴロしてればよかったじゃない」
 そしたら私はオーストリアさんと一緒のシチュエーションを十二分に満喫できたのに。空気読めバカ。
「そうですね……少し早いですが、ちょっと聞いてみます」
 従業員の女性(「ナカイ」と呼ぶらしい)と会話をはじめる。あまり揉めた様子もなく、話を終えた。
「大丈夫だそうです」
「えっ、いいんですか?」
 日本さんの言うところによると、せっかく外国から来たのだから、ぜひ一番風呂を堪能してほしいとのことだった。
 このサービスのよさは見習わなきゃ。もちろんメモ。
「お入りになりますか?」
 もちろん、と答える声がまたハミングした。


 たちのぼる湯気が風にさらわれる。けれどまた浮かんで、風景をぼやけさせる。
 半屋外のこの温泉は「露天風呂」と呼ぶらしい。ただでさえ開放的な気持ちがますます開かれていく。見渡す限り大自然の景色は安心する。
 浴槽の中で伸びをする。ちょっと熱いけど、そのおかげで疲れが溶けていくみたい。お湯をすくって肩にかける。独特なにおいも今は気にならない。
 だけど、ちょっぴりさびしい。一人じゃ広すぎる。話す相手もいなくてつまらない。男湯の方はにぎやかそうなのに。
 耳を澄ませると、かすかに会話が聞こえてきた。暇だし、なんとなく聞いてみる。
「……の方は、肌の……が違い……」
 声からするに、たぶん日本さんだ。確かに、アジアとヨーロッパは人種が違うから肌は違う。
 オーストリアさんの大理石みたいな白い肌は黒っぽい岩ばかりの露天風呂に映えるだろう。熱さでほんのり上気すれば、生つばが出るくらいの色気を発する。いつもは上げている前髪はひたいに張り付いて、滴がぽたりぽたりと落ちる。正に水もしたたるいい男。
 風呂から上がれば日本の古き佳き伝統衣装の浴衣に身を包む。帯をうまく締められずに胸元が開いている。凝視すると、「はしたないですよ」とただでさえ湯上がりで血色のいい顔を赤らめる。
 身体が熱い。手をのばすと私をきつく抱きしめて、前合わせから手を入れてくる。熱い手で私にふれて、同じように熱い吐息を首に吹き掛ける。
 それで力が入らなくなって、私はオーストリアさんにしがみつく。そのせいでますますはだけてしまう。もう「着ている」というより、「引っかけている」というのが正しい。なんの意味もなくなった浴衣は脱ぎ捨てて、肌と肌を合わせる。
 熱い。熱い。あつい――


「――ハンガリー」
 穏やかでやさしい声。
 ひたいが冷たい。頬に風を感じる。目を開けると、オーストリアさんが私を間近にのぞきこんでいた。
「……えっ」
 起き上がろうとした。でも頭がくらくらして途中から倒れてしまう。柔らかい感触が頭を受け止める。枕だ。
 大丈夫ですか、と尋ねられてうなずく。風は彼が手にしている扇子みたいなものから送られて来ていた。
 どう見ても泊まっている宿の一室だった。露天風呂にいたはずなのに、いつの間にか浴衣を着せられて布団に寝かせられている。
「なんで私、ここに」
「風呂でのぼせたんですよ」
「えっ」
 そういえば熱かった。恥ずかしくて泣きそう。
「すみません」
「気にしないでください。疲れていたんでしょう」
「……はい」
 まさか「妄想していました」とも言えなくて、ぎこちなくうなずいた。後ろめたい。
 ひたいに氷のうが置かれる。たぷんと中の水が揺れた。潜ってるみたい。冷たくて気持ちいい。
 情けないなあ。あんな妄想くらいで頭に血がのぼってのぼせちゃうなんて。もっとハードなやつならまだよかったのに。
「夕食まではまだ時間がありますから、休んでいてください」
「はい」
 目を閉じる。なんだか眠くなってきた。
 ……ん? そうよ今部屋にいるってことは!
 勢いよく目を開ける。傍らで手を動かすオーストリアさんを上から下まで眺めまわす。
 雪肌にゆるくまとった浴衣。惜しみなくあらわにされた鎖骨は力強く隆起し、隠れた胸板のたくましさを予想させる。扇ぐ手は細いながらもしっかりしている。なによりも肌が全体的に淡紅色に染まって、普段とは違う色気が……っ!
 意識が遠のいていく。
 私の墓石には「日本文化最高」と刻んでほしい。


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09/06/17