水を握る



 吐息が生温かく胸にかかる。密着した肌の間に熱が渦巻いて汗ばむ。
「――」
 俺に抱かれて眠る女の名を呼んでみる。静寂が乱れた気がした。
 答えはなく、また平穏がやってくる。
「――」
 もう一度。
 返事は求めていない。口に柔らかい名の響きを味わいたいだけだ。今までに何度呼んだのか、もうカウントできない。きっと単位が追いつかないだろうから。
 幼いころから一緒にいた。野原を駆け回って泥まみれになっても、それでも飽きずに無心の日々を過ごした。
 そのころからずっと、惹かれていた。
 彼女は自分のことを男だと思っていた。確かに精神的な面ではそうだった。でも身体的な面まではそうもいかず、ちらちらと「女」が姿を見せた。
 たとえば、碧眼から放たれる眼差しは明るくて優しげで、曇りのない未来に満ちていた。それを独り占めしたくて、わざと不興を買うようなマネもした。
 もうちょっと成長して男女の身体に違いが生じるころ、彼女はようやく自分が女だと自覚した。かすかにふくらんだ胸を押さえて、「ちくしょう」とつぶやいた。
 金を帯びた茶の髪の毛は、俺よりも細くてさらさらしていて、雲をほどいたようにきらめいた。ふれたくてしょうがなかった。
 ようやく自分の性別を受け入れると、花が咲きこぼれるように、気配が色づいた。フリルのついたスカートを着こなして、鏡を見てはため息をこぼした。
 唇が丸かった。喩えるものも見つけられないくらいにやわらかそうで、俺のものとふれ合わせたらどうなるのだろうと想像しては顔を羞恥に染めた。
 昔からひっそりと息づいていた「女」が完成されたころ、もう他愛のない関係ではいられなくなった。淡い記憶に別れを告げて、身体と心をつなげた。
 細いわりにしっかりした鎖骨からふくよかな丘陵、その裾野からほっそりとしたくびれに続いて、まろやかな曲線を描く。一分のすきもない造形の美を味わった。
 見ているだけでよかった。
 ふれるだけでよかった。
 キスできるだけでよかった。
 そんな日々を通り越して、彼女の身体を手に入れた。彼女の全てを知った。
 どんどん貪欲になっていく。世の中で究極と認識されている愛の行為を成しても、胸が満たされることはない。どんなに喘がせても啼かせても足りない。先を求めて、つい激しくしてしまう。そのせいで、最近は終わるなり泥のように眠ることが増えた。
 昔の方が、ずっと純粋に想っていたような、そんな気さえしてくるのだ。愛の裏に隠れた肉欲や、満たされない気持ちの存在など知らなかったがゆえに。
「――」
 三度めの呼び声は焦燥がはっきりと浮かんでいた。
 水を握るように、もどかしい想いは逃げていく。


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09/07/15