永久凍土の心
寒い。
北国生まれ北国育ち(というか北国そのもの)であるベラルーシにも、さすがに許容範囲というものがある。今日は珍しくそのラインを越える日だった。
眉を寄せ、かじかむ指先に息をかけてこすり合わせる。そのうち皮膚が擦りきれてしまいそうだ。手袋はいらないだろうと判断した数時間前の自分を今からでも説得したい。
真っ白な息が風にさらわれる。早く家に帰って、ウォトカで暖まりたい。その酌に兄が付き合ってくれればなおいいのだが。
膝まで積もった雪をかきわけ、ざくざく進む。冬は嫌いだ。雪はもっと嫌いだ。彼女の兄が嫌いだから。
ようやく家が見えてきた。あともうちょっと、と自分をなだめて足を踏み出す。ソビエトにはあれだけの人数がいるのだから、誰か雪かきくらいすればいいものを。
「ベラルーシちゃん!」
人影がこちらに向かって走ってくる。リトアニアだ。寒さに強ばる顔は動かなかったが、内心で盛大にしかんだ。
この男は冬や雪よりも嫌いだ。視界にすら入れたくない。彼女の兄のお気に入りだから。
血の気のない顔を見るなり、彼は慌てて自分のマフラーを外し、彼女の細い首に巻きつけた。だがそれは即座に外され、雪の上に投げ捨てられる。
「私にかまうな。うっとうしい」
硬直してしまっている彼の横を素通りし、轍(わだち)をわざと通らずに足を進める。恩など、ほんのわずかでも着たくなかった。
胸の内で、怒りとも悲しみともつかないものが揺れる。真っ先に迎えにきたのが、兄ではなくこの男だったことに。
いつだってそうだ。彼女の欲しいものが兄から与えられたためしはない。「好き」という言葉も、さりげない思いやりも。
誰でもいいからそうしてほしいわけではない。兄でないとなんの意味も価値もない。なのに、叶えるのはことごとくこの男だ。それがとても腹立たしい。……兄から気にかけてもらえない自分がむなしい。
要するにみじめになるのだ。それに、馬鹿の一つ覚えのように機嫌を取ろうとする姿が、片腹痛くてたまらない。
だから嫌いだ。とても嫌いだ。
「でも風邪ひいちゃうから、せめて手袋くらい」
家を目前にして「風邪をひく」など、とんだ笑い話だ。だが嘲笑する気も起こらない。彼がいるとそんな元気も奪われてしまう。
「愚か」という言葉では足りない幼なじみ。兄に振り向いてもらえない、なんの存在価値もない自分を盲目的に追い続ける。
「お前」
「なに?」
声をかけるだけで嬉しそうにする。救いようのない滑稽さだ。救う気もないが。
「私が『脱げ』と言ったらできるか。今、ここで」
「え」
背を向けているから顔は見えないが、驚いた様子なのは分かった。鼻を明かせたようで気分がいい。
口に出したときは本気ではなかったが、嗜虐(しぎゃく)心が芽生えてきた。「どうせできないだろ」、と攻め立ててみる。
これで懲りればいいのだ。いっそ嫌われるぐらいがちょうどいい。
「分かった」
衣ずれの音。
まさか、と振り返ると、彼はコートとジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめ、今はシャツのボタンに手をかけていた。吐き出す息が寒々しい。手がふるえている。
もたつきながらシャツを開け、袖を抜いて雪の上に落とす。アンダーシャツのすそを引き出し、まくり上げる。傷痕のある肌がのぞいた。
今度たじろぐのは彼女の番だ。まさか本気にするなど予想外である。
「お、まえ……やめろ!」
狂っている。極寒の中、裸になろうとするなど、まともではない。それを命じた本人であることも忘れ、ただ圧倒された。
胸に、腰に、腕に、痛々しく残っているのは、兄から折檻を受けた名残だ。その妹である彼女を憎んでもおかしくないのに、こんなにきつく想っている。
「馬鹿」
「ベラルーシちゃんがそう言うなら、馬鹿でいいよ」
一歩近づいて、手を伸ばした。だがどうすればいいのか分からず、戸惑う。
投げ捨てたマフラーが目につき、拾った。それを自らの首に巻く。雪まみれのマフラーはちっとも暖かくない。むしろ冷たい。
永久凍土はこんな風だろうか。兄の心は。彼女の心も。
「さっさと服を着ろ」
そのまま反転し、また家への道をゆく。遠く、近く、永遠よりも長い。
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09/07/12 初出(ENU)
09/07/29 改稿再録