蒼い夜



 彼に気づかれないように、そっとベッドを抜け出した。
 夜明け間近の蒼い空気が宮殿をさえざえと彩る。この建物の冷たさをはらんだ美しさを、私はとても愛して……いた。
 今日が最後。私は、彼の元を去る。半世紀ちょっとの結婚生活に自ら終止符を打って。
 ――望んでいたことなのに。
 オーストリアさんに惹かれる自分、反発を覚える自分、両者の拮抗(きっこう)に悩むことは、もうない。楽になれる。
 それに、別れたからって一生会えなくなるわけじゃない。「主と召使い」とか「夫と妻」とか、そんな枠組みのない、ただの「オーストリアとハンガリー」になるだけ。
 ――それだけ、でしょう?
 ナイトガウンをはおって、自分の部屋に戻る。服を着替えて、ぎりぎりまで必要だったものをバッグに詰めて、いらないものは整理する。
 部屋を出ようとして、右手薬指にはめたままの指輪に気づく。当たり前みたいに馴染んでいたから、今の今まで存在を思い出さなかった。
「……っぐ」
 ちょっと力をこめて引き抜いた。着けていた痕がまだくっきりと残る。だけど、しばらくすれば消えるんだろう。
 机の上へ指輪を置いた。木目にまぎれるようにして輝く、小さな小さな金属の輪。私たちをつないでいた重大な証。
 この部屋を次に使うのは、誰かしら。それはきっと私じゃないでしょうけど。
 玄関までは冷静でいられたのに、ドアが見えた途端、弱気になった。向こうには、今までとはまったく違う世界が待ち受けている。
 ――決めたの。決めたのよ。
 やさしくて、でも帰ってくることはできない場所。そう知っていながら、だけど、選ばずにはいられなかった。
 さあ、ドアを開けて、一歩踏み出して。振り返らずに、歩くの。
「ハンガリー!」
 呼び止める声にも、耳を傾けずに。
「私に挨拶もせず、行くのですか」
 だけど、後ろから抱きすくめられて立ち止まる。うなじにかかる息に身体がふるえる。耳に流しこまれる声に心が揺らぐ。
「……」
 胸が詰まってなにも言えなくなる。想いが沸き上がって決意を溶かそうとする。
 こうなるって分かってたから、会わずに行くつもりだったのに。
 ――ずるい。
 最後まで私を悩ませる、ひどい人。だけどやさしくてピアノが上手で真面目で優雅で高貴で、……愛しさを止められない人。
「お元気で」
 手をほどこうとしても、逆にきつく巻きつくだけだった。
「放して、ください」
「嫌です」
「……っ、私はちゃんと、挨拶しました!」
「他に言うことはないのですか」
 ありません、と首を振った。あったらそう言ってさっさと別れている。都合のいい言葉を用意できるほど、如才なく生きていければいいのに。
「『愛しています』とは、言ってくださらないのですか」
「……言えません」
 ぼろぼろと涙がこぼれる。彼が抱きしめていなかったら、その場に崩れ落ちてたかもしれない。
「私は、貴方を断つんです。自分から。……なのに『愛してる』なんて、ムシがよすぎて」
 愛している。心の底から、反発の気持ちと同じくらい、長い年月を捧げて、彼を愛している。
 心と身体が二つに裂けてしまえばいい。半分は純粋に彼を侮蔑して、もう半分は純真に彼を愛することができたらいい。
 だけど一つしかない心と身体の内側で、いつまでもぐだぐだと両者はせめぎ合っている。
 ――独立を選んだのと同じくらい、私は貴方の妻でありたかった。
「さようなら」
 蒼い夜が明ける。まばゆい陽射しが宮殿を照らす。朝日を浴びながら、私は独立した。


↑普通系目次に戻る

↑小説総合目次に戻る


10/01/01 初出(年賀状企画)
10/02/09 再録