孕みごと、ひとつ



「もう、聞いてるの?」
 少女は鏡越しに、彼女の髪を櫛でとかしている私をにらんだ。けれど、その様子は「おそろしい」と言うよりも「可憐」と言う方が近かった。あるいは、「愛らしい」とか。
 彼女は、まだ十一歳。
「もちろんです、大公女さま」
 そう答えたけれど、唇がゆるんでしまう。さっきまで、嬉々として彼女が語っていた話の内容のせいだ。
「フランツ・シュテファンさまのお話でしょう?」
 ちゃあんと聞いていますよ、と澄ました顔をする。むくれた顔があっという間に、にこにこ、ご機嫌そうになる。
「そう、そうなのよ。彼がね」
 再開したおしゃべりは何回も聞いた話と酷似している。よく飽きないのね、と思うと、ゆるみきった口のすき間から笑いが漏れた。
 けれど、それにも気づかないほど彼女は夢中なようだ。もちろん、初恋に。
 五歳のときに初めて出会った、九つ歳上の又従兄。皇帝でもある彼女の父にも気に入られて、六歳で婚約した。
 生まれたときから、ううん、両親や祖父母の世代から知っている私にしてみれば、おこがましいこととは分かっているけれど、まるで妹のような存在だ。
 そんな風に思っている彼女が、こんなに幸せそうな様子を見ていると、こちらもつられてしまう。
「さっきからうなずいてばかりいるけれど、ハンガリーにも好きな人はいるでしょう?」
 手が止まってしまった。鏡に映る私は、心底驚いたという顔をしている。
 その反応こそが肯定の証だと見抜いて、明るい青の瞳がきらきらと輝きを増した。振り返って、服のそでを引きながら、矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「いるのね? 誰? 誰なの?」
「それは、その」
 ごまかそうにも、とっさには浮かばない。しどろもどろになる。そこから彼女は推理を進めていく。
「私に知られたくないってことは、私が知ってる人でしょう?」
 図星すぎてぐうの音も出ない。
「貴方は国だから、きっと、好きな人も国ね」
 もうほとんど出てしまっている答えを否定しようとして、頭が空回る。事実の強靭さには誰も勝てない。
「あっ、もしかして、オース――」
「やめてください!」
 ヒステリックにわめいた。さっきまではいきいきしていた表情から、すうっと興奮が失われていく。
 ふるえる身体を押さえつけるために、歯を食いしばった。強く噛み締めたせいで、こめかみのあたりが痛む。頭に耳鳴りが響く。
 絨毯や壁が、すべての音を吸いこんでしまった。息遣いさえも消えて、沈黙が腕を広げていく。ふれたものを氷づけにして。
 大公女さまの、いつもは聡明な瞳が怯えに満ちていて、なにか言わなくちゃと思った。だけど、のどは狭くて、一言も出てこない。さっきわめいた罰だろうか。
「ごめんなさい」
 涼やかな声が、私の身体から力を抜いていく。
 たおやかな手が私のものにふれた。彼女の手はあたたかくて、それに比べたら、なんて私の手は冷たいんだろうと思った。
「貴方を苦しめるつもりはなかったの。本当よ」
 わかっています、と答えた声はのどに引っかかってかすれていた。これじゃまるで咎めてるみたい。そう思ったのに、弁解する余裕もない。
 代わりに彼女の手を包むと、冷たいだろうに、嬉しそうにしてくれる。
 それがとても申しわけなくて、唇を噛んだ。


*


 大きく張り出した腹部にさっとふれた私に、彼女はあたたかい眼差しを向けた。妊娠によって丸っこくなった輪郭は、彼女に慈愛の印象を与えている。
「そんなにビクビクしなくてもいいのですよ」
「でも、……なんだか、恐れ多くて」
 皮膚の下には、まだ生まれてこない命がある。そう思うと、うかつにさわれない。下手なことをやらかさないか不安になってしまう。
「まあ」
 青い瞳が丸くなる。それはじきに細められて、ころころと、鈴のような笑いが、ふんわりとした唇からこぼれた。
 美しい人だな、と思う。王冠を戴(いただ)かない少女のころからそうだったけれど、今は、内側からあふれる輝きも加わって、まばゆさで彩られている。
 彼女は女帝でもあり、妻でもあり、女でもあり、母でもある。そのすべてにおいて、苦難を味わいもしたけれど、幸せも手にした。
「大丈夫ですから、ほら、手を出してください」
 言われた通り、おずおずと手を差し出す。つかまれて引き寄せられて、そのまま腹部に導かれた。慎重に慎重を期してさすって、ほぅ、とため息が漏れた。
「ここに、赤ちゃんが、いるんですね」
 彼女は馬鹿にしたりせずに、大きくうなずいた。自らも腹部をさすりながら。
 そして、部屋の片隅で私たちのやり取りを見ているだけだったオーストリアさんに声をかけた。
「貴方もさわりますか?」
 我関せずを決めこんでいた彼は、いきなり話を振られて戸惑ったようだった。テレジア様とお腹を見比べてから、首を振った。
「遠慮しておきます」
「そうですか?」
 少し残念そうに首をかしげてから、彼女は椅子の背に軽くもたれて、身体を楽にした。
「オーストリア。私は、できるかぎり子を産もうと思うのです」
 そうですか、とうなずいた彼をちらりと見やって、微笑する。
「なぜだかわかりますか」
 オーストリアさんは少し考えたようだった。探るように口をひらく。
「後継者がほしいから、ですか?」
「ええ、それは当然のことです」
 うなずいて、でも、「それだけではありません」と否定する。
「夫と私が分け合った命がこの身体にあるということに、無上の喜びを感じるからです」
 呼吸が止まった。
 他意はなかったんだろう。だけど、心臓のやわらかいところに言葉が突き刺さって、口の中に苦さが広がっていく。
 私やオーストリアさんは姿こそ人だけれど、その正体や本質は、どこまで突き詰めても国だ。人と国は、鶏と風見鶏みたいな、似ているけれど決して同一ではない存在。
 愛するという感情は、国であっても持っている。けれど、それを発展させて身体を交えても、生命を身に宿すことはない。いつまでも平らなお腹を、無感動に凪(な)いだ気持ちで見つめるだけ。
 黒い感情が、経験したこともない胎動のように、どろりとお腹でうずまく。
 私の中の醜いものが、彼女や彼女の愛し子に手のひらから伝わってしまいそうで、ぱっと手をどけた。
「どうかしました?」
 この気持ちは、いかに聡明であったとしても、「人」であるテレジア様にはわからない。
 そして、同じ「国」であっても、「男」であるオーストリアさんにもわからない。
 不思議そうに首をかしげた彼女は、ふいに眉を寄せた。手をのばして私のほおにふれる。指先が濡れているのを見て初めて、自分が泣いていたことを知った。
「も、申し訳ございません」
 見苦しいところをさらすわけにはいかない。あわてて拭こうとしたら、やんわりと止められた。
 どことなく身体が重そうな様子で立ち上がったテレジア様は、あろうことか、私を抱きしめた!
「てれっ、テレジア様!?」
 オーストリアさんの方を見ると、彼も驚いた顔をしていた。目が合って、困惑の視線を交わす。だけど、ずっと抱きしめられているうちに、また涙があふれてきた。
 こんなにやさしくてあたたかいのは、彼女が「母親」だから。飢えて渇いた心に、「愛情」という手料理を携えて訪れてくれる人。
 なにも言われてないのに、「泣いてもいい」と言われた気がして、涙が枯れるまで彼女に甘えた。
 波が収まったあと、ハンカチで顔を拭いてくれるのが子どもにするようで、ものすごくくすぐったい。鼻をすすり上げたら、くすりと笑われた。
「落ち着きましたか」
「……はい」
 落ち着いたら恥ずかしくて、顔が見れない。
 目を伏せたら、膨らんだお腹が視界に入った。動揺はしたけれど、さっきみたいに、闇に囚われることはない。
「……一つ、お願いがあります」
「なんですか?」
「今、ご懐妊なさっている殿下がお生まれになったら、……抱かせてくださいませんか」
 テレジア様は、青い瞳を見開いて、――それから、微笑んでくれた。


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10/07/31 初出(お手紙企画)
10/09/04 再録