古傷さがし
放課後、誰もいない教室に二人でいるのがいつの間にかお決まりになっていた。
特になにをするわけではない。テストの結果や日常の愚痴を片方が垂れ流し片方が聞き流し、協力して課題に取り組んだり妨害したりしている。
今はといえば、机に突っ伏して寝ているプロイセンを放置してハンガリーは携帯をいじっているところだ。
メール受信音が鳴り響く。しかし彼は文句を言うどころか身じろぎすらしない。まるで死んでいるようだが、爆睡しているだけだろう。いつもこうならいいのだが。
親指をすばやく動かして返事を送信し、ため息をついた。大きく伸びをしたあと腕や首をぐるりと回す。そして、視線が銀色の頭に向けられた。
気だるげな表情が、かすかに揺らいだ。
さっとあたりを見回して誰もいないことを確かめる。そろりと手を伸ばす。おそるおそるふれる。やはり起きない。それに背中を押されて今度は指先で無遠慮に髪をかき分けた。
「このあたり……」
昔、二人とも子どもだった昔、もっと言うなら彼女が自分を男だと思っていた昔、彼の頭部に怪我を負わせたことがある。
木登りをしていたら足場の枝が折れて彼の頭を直撃したのだ。予想外の事態にあわてふためいていると、心配するな、と逆になだめられた。銀髪が染まるほど血を流しながら言われても説得力に欠けたが。
血の量の割に傷は深くないと手当てをした医者は言っていたが、痕は残ったはずだ。何度か本人に訊いてもはぐらかされてしまった。確かめたいと思いながらも機会がないままだった。
だから――今しかない。
いつも気に病んでいたわけではない。むしろ普段は忘れている。オーストリアにいらぬちょっかいをかけている彼に、フライパンで制裁を与えることにためらいはない。だが、ふとしたきっかけで思い出すとその分余計に胸が痛んだ。
やや固い感触の髪が指の間を潜る。
どうしてこんなことをしているのか彼女自身にもよくわからなかった。知ったところでどうなるものでもない。それはわかっている。見つけてどうこうしたいわけでもないのだ。
「……」
それらしいものは見あたらなかった。本当に痕が残らなかったのか、それとも長い年月の間に薄くなってわかりづらくなったのか。どちらなのか、それともどちらでもないのか、真実を知ることはできない。
だが、事実は変わらない。
ため息とも吐息ともつかない小さな呼吸をもらして、手を引っこめた。
「……あなたは忘れてるのね」
どうせ相手は眠っていてこちらの言うことなど聞こえていない。なんとなく大胆になる。普段なら口にできないことを言葉にするのもたやすい。
「あのとき、私を抱き止めたのに」
乗っていた枝が折れ、とっさに他の枝を握りしめた。普段なら平気で飛び下りることができる高さだったが、いきなり落ちそうになった恐怖のせいで崖っぷちにいるような気分だった。
全体重のかかった腕は悲鳴を上げ、じわじわと指先から力が抜けていく。だが、どうしても手を離す勇気が出なかった。
「『俺がお前を受け止める。だから安心しろ』って。……言ったのに」
その言葉は、信頼するに足りた。なぜなら、それは彼女の親友のものだったからだ。
手を離した。重力に引きずられて身体が落ちる。思わずきつく目をつぶったが、地面にぶつかる衝撃はいつまで経ってもこなかった。しっかり支える腕と、「言っただろ」と自慢気な声が彼女を包んでいた。
しかし、考えてみてほしい。そこでほっとして目を開けると、自分を抱き止めた相手が血まみれなのが見えるのである。誰でもうろたえるに決まっている。
「それなのに覚えてないなんてずいぶんな言いぐさね。私はずっと、――」
息を飲みこみ、同時に、続けるべき言葉も飲みこんだ。
アンニュイなポーズのために頬杖をつき、顔がほてっていることに気づいた。おそらく赤くなっている。
「やだ、なんで私が」
頭を振って熱を振り払い、椅子から立ち上がる。自分の鞄を取るとハンガリーは逃げるようにそそくさと教室を出た。
風が吹き、カーテンがはためく。カチカチと時計の秒針の音が広い教室に響いた。
「あのやろー……」
うなるような声を出しながらプロイセンが頭を上げた。頬やひたいには服のしわのあとが残っている。しかし、彼の顔が赤い理由はそれだけではない。
「寝てるふりするこっちの身にもなれ」
がしがしと頭をかき、ふてくされた表情で窓の外に視線を投げる。ポプラの葉がさわさわと涼しい音を立てた。
「……俺だって、ずっと」
こめかみ付近。
くっきりとボタンのあとが残っているそこには。
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11/01/01 初出
11/02/26 改稿再録