なぜ私たちは花を贈るのでしょうか
「花を贈ったことはありますか」
そう訊ねられて、ほどけるように思い出したのは――感謝の気持ちを伝えるために探した花だ。
*
ゆるく長い坂道の中ほどで、オーストリアは足を止めた。
車がようやくすれ違えるくらいの幅の道の両端に、ひさしを突き出した店が連なり、商店街を作っている。焼きたてのパンの香り、挽きたてのコーヒーの香り、追いかけっこをする子どもたちの声、客を呼ぶ店員の声、鮮やかなカーテンの色、にぎやかな要素の一つ一つが、小さな町のやわらかさを醸し出している。
往来の邪魔にならないように道の端に寄り、もう一度通りをぐるりと見回す。そして、確信した。
「また道に迷ってしまったようですね……」
夕方からハンガリーが自宅に来ることになっていた。彼女に食べさせる茶菓子を買いに、すぐ近くの商店街に向かっていたはずなのだ。……確かにここも商店街ではあるが、見覚えがない。
少し考え、どうせ茶菓子は買わねばならないし、道はすべてつながっているのだからいつかは自宅に帰れるだろう、という結論に至った。というわけで、見慣れない町をのんびり散策しながら買い物を満喫することにする。
あちこちに気を散らしながら坂道をのぼっていると、上の方から「あっ」という少女の驚く声が聞こえた。何事かと思いながら目をやると、リンゴがころころと転がってきた。
拾い集めていると、「すみません」と言いながら少女が駆けてくる。片手にはぱんぱんに膨らんだ紙袋を抱え、もう片方には底の破れた紙袋を握りしめている。大体の事情はそれで想像がつく。
「ありがとうございます!」
「いえいえ」
リンゴを手渡して、少女と目が合った。大きな翡翠色の瞳に、肩口で切り揃えられた金色の髪。
名前を呼ぶのは同時だった。
「リヒテンシュタイン」
「オーストリアさん」
彼女がいることが、ここがどこなのかを物語っていた。
ここは、スイスだ。
リヒテンシュタインの荷物を一つ持って家まで運ぶ代わりに自宅まで送ってもらう、という取引はすぐに成立した。道中、彼女におすすめされて茶菓子も購入した。
「それにしても、めずらしいですね。彼は一緒ではないのですか」
「お兄様も一緒に来るはずだったのですが、出かける間際にお仕事の電話が入ったのです。長引くようでしたので、一人で出てまいりました」
「そうですか」
公園を横切りながら交わしていた和やかな会話も、急な怒声で終わりを迎える。
「貴様! 我が領土と妹になんの用であるか!」
出会い頭にこれである。別に用なんかありませんよ、と思いながら目を向けた。緑の軍服に身を包んだスイスが、銃を片手にこちらをにらみつけている。
公園で遊んでいた子どもたちが「そこくさまだー」と騒いでいるが、決して近づこうとはしない。おそらく親に厳しく言われているのだろう。なかなかの国民ぶりである。
スイスは軍靴を勇ましく鳴らしながら近づき、つっけんどんに二人の間に割って入った。警戒心を隠そうとするどころか、これでもかとばかりにたぎらせている。いつものことなので、今さらいら立ちを覚えたりはしない。
「我輩の領土に立ち入るなら、事前に許可を取るべきなのである!」
「私も、来たくて来たわけではありませんよ」
道に迷いまして。そう言うと、うんざりした表情になった。幼いころから付き合いがあるのでオーストリアの方向音痴ぶりはよく知っているし、迷いこむのは今日がはじめてではないのだ。残念ながら。
「だからと言って見過ごすわけにはいかぬ! 次はないと前回――」
「お兄様、待ってください」
リヒテンシュタインがスイスをさえぎる。
「確かに無断入国かもしれませんが、オーストリアさんは私の買い物の荷物を持ってくださいました」
「しかしだな、リヒテン」
「ご恩を仇(あだ)で返したくありません。どうか私に免じて、お願いします」
明らかに困惑した様子だ。侵入者は制裁したいが、可愛い妹の意志を無下(むげ)にできないのだろう。板挟みになって悩むさまを、オーストリアは当事者ながら第三者のようにながめていた。
昔からそういう性格だった。ルールやら立場やらに人一倍こだわるくせに、情にあつく、わざわざ自らジレンマにおちいってしまうのだ。
どちらかを不要なものとして切り捨ててしまえばいいのに、それができずにもがいている。そんな苦悩が手に取るようにわかってしまうのは、……おそらく似ているからなのだ。
「……リヒテンがそう言うのなら仕方ない。今回は大目に見てやるのである」
「どうもありがとうございます」
そしていつも、結局は感情に負けてしまうのだ。それならいっそのこと形式にこだわることをやめてしまえばいいのに、自分という基準を失ってしまうようで踏み切れない。
「我輩たちは荷物を家に運ぶ。お前はちょっとここで待っているのである。絶対に動くな。わかったな。絶対だぞ!」
「わかっていますとも」
オーストリアが持っていた紙袋を奪い取り、スイスはリヒテンシュタインを連れてせかせかした足取りで自宅へ向かう。突っ立っているのは疲れるので、公園のベンチに座って待つことにした。
目の前では、どこの国でも変わらずに無邪気で元気な子どもたちが遊んでいる。口元がかすかにゆるみかけたが、おんぶをしてふざけているのを見て、ふと、忘れかけていた幼少時の記憶がよみがえった。
『あなたはこうやって迎えにきてくれるんですね』
『お前は本当にお馬鹿さんである』
……思い出した。あのころは無邪気に笑い合えたのだ。あきれたような気の抜けたような、ぎこちない笑い声を、背負われながら聞いた。
強い信頼と協力の元に成り立っていた友情。いつでも迎えにきてくれて、どんなに弱くても許してくれた友人。
「なにを凝視しておるのだ」
「……いえ、なにも」
内心飛び上がるほど驚いたことは隠して、普通の表情を取り繕った。オーストリアの視線の先を追ったスイスは、苦いような顔をした。同じことを思い出したのかもしれない。
だが、どちらも昔話をはじめなかった。笑いながら傍らを駆け抜ける少年たちを、痛みをこらえるように見送った。――還らないと、知っていた。
「……お前の家まで送るのである。着いてこい」
「はい」
まるで葬列のような重苦しい雰囲気で歩く。会話はない。視線すら合わない。そもそも相手を見ていない。お互いにわざとらしく虚空を見やっている。
リヒテンシュタインと出会った商店街で花屋の前を通りがかった。色鮮やかな季節の花に誘われて、思わず足を止める。数歩進んでからスイスも立ち止まった。
「なにをしている」
「せっかくですから花でも買おうかと思いまして」
「……さっさと済ませるのである」
買うなと言わないのは、オーストリアの買い物が自国の経済のためになるという計算が働いたからに違いない。
昔からしっかり者だったが、ここまでしたたかではなかった。おそらくは、痩せた大地で生き抜くために必要なこととして、後天的に身についたのだろう。オーストリアがついに戦いを放棄して結婚に活路を見いだしたように。
ハンガリーが気に入るようなものにしようと思っていたのに、店内に入ってすぐ目に留まったのは鉢植えのエーデルワイスだった。
小さくて白くて、どちらかといえば地味な花だ。それでも目を離せない。
「お求めの花はございますか?」
笑顔で店員が話しかける。うなずいて、鉢植えを指差した。
「これをお願いします」
代金を支払い、片手に抱えて外に出る。遅いと言いたげにいらついているスイスだったが、オーストリアの持っている花に気づいて眉を寄せた。
「美しいと思いませんか」
「……花など、すぐに枯れてしまうのである」
ぶっきらぼうに言うと、ずんずん歩き出す。ため息すら出てこない気分でいかり肩を見つめ、後を追った。
国境を越えてそろそろ自宅が見えはじめるころ、ハンガリーと行き会った。彼の顔を見るなり、彼女はあせりの表情を消してほっとした顔をする。
「よかった……送ってくれたの?」
「リヒテンを助けてくれた礼があるのだ」
「そう。ありがとう、助かったわ」
スイスは、ふん、と鼻を鳴らし腕組みをしてそっぽを向いた。
「次こそは撃つ。覚悟しておけ」
長居は無用とばかりにさっさときびすを返す。声が届く距離のうちに、背中に向かって言った。
「ありがとうございます」
返事はない。すぐに雑踏に紛れて、姿が見えなくなる。ふぅ、と小さく息をついて、ハンガリーの方を向いた。
「早く来たんですね」
「前の用事が早めに済んだので。でも家にいらっしゃらないので、あわてて探していたんです。スイスさんのところに用があったんですか?」
「いえ。買い物をしようとしていたら迷いこんでしまって」
彼女は苦笑した。並んで歩きながら、彼の抱えている鉢植えをしげしげと見つめる。
「綺麗な花ですね。エーデルワイスですか?」
「ええ。あちらで買いました」
「そういえば、国花でしたね。オーストリアさんとスイスさんの」
「……、ええ」
一瞬頭をかすめた愚かな空想。口ごもってしまうと、彼女は痛みをこらえるようにかすかに眉を寄せたが、なにも言わなかった。彼女らしい細やかな情と気遣いが健気で愛しく、そっと手を握る。確かな意思の感じられる強さで握り返される。
目を合わせずに家までたどりつき、コーヒーを沸かして二人でケーキを食べる。それしか知らない機械人形のように、黙々と口に運ぶ。
ひたすら、硬い、空気。だが、その原因はハンガリーではなく、オーストリアだ。心ここにあらずという様子で、何度もエーデルワイスに目をやっては逃げるようにすぐ目をそらす、その落ち着かない様子のせいだ。
砂糖とミルクを混ぜたスプーンが、カツン、と音を立ててソーサーに置かれる。金属質な音がいやに響いた。はっとしたように「ごめんなさい」と謝る声が、小さくしぼむ。
「……オーストリアさん」
「はい」
「花を贈ったことはありますか」
そう訊ねられて、ほどけるように思い出したのは――感謝の気持ちを伝えるために探した花だ。
夏でもひやりと冷えた山道を、泥だらけになって汗を流しながらさまよった。やっと見つけたその花は、岩の陰でひっそりと咲いていた。そっと手折って大事に握りしめたまではよかったが帰り道がわからず、結局、いつものように迎えに来てもらってしまった。
『お返しです』
さんざん説教を浴びせてから、こんな無謀な行動に走った理由を問いただした彼に――スイスに、そう答えた。峻峰(しゅんぽう)のように険しくつり上がっていた眉が、困惑するようになだらかになったことを覚えている。
『あなたはいつも私を迎えにきてくれますから。だからその、お返しです』
再び説教を食らうことになってしまったが、一生懸命探したその花は、ちゃんと受け取ってもらえた。
あのころから彼は変わらないのだ。ルールやら立場やらに人一倍こだわるくせに、情にあつい。
「何度もあります。……はじめて贈ったのは、幼いころでした」
還らない日々。きっと彼は唾棄(だき)したまま忘れてしまっているのだろう。
過去にすがりたいわけではない。それでも、ときどき思い出してしまう。昔に還る心が懐かしさでちくりと痛む。耐えかねて心の奥底にしまって忘れても、ふとした拍子にこぼれ落ちて、また心を痛めて、……その繰り返しだ。
「なぜ私たちは花を贈るのでしょうか。花はすぐに枯れてしまって、美しいのはほんのひとときなのに」
自嘲するようにつぶやいた。手をきつく握りしめる。
たとえば宝石なら、手入れを怠らない限りその輝きは半永久的に保存される。絵画も、経年劣化はするものの花ほど無惨に朽ちることはないだろう。音楽は奏者によって雰囲気は変わるが、曲想は不変だ。
「花といううつろいゆくものに私たちが想いを託す意味は、どこにあるのでしょうか」
張りつめた空気をほぐすように、オーストリアの手にハンガリーの指先がおずおずとふれた。彼女の視線はエーデルワイスに注がれている。伏せがちなまつげが、緑の瞳をいろどる。
「私たちが生きているから、生きた花が想いを届けてくれるんだと思います」
――ああ。
胸を締めつけていたものが、ゆるんだ気がした。
「どんな花を贈ろうか考えて、心の中がその人でいっぱいになるときも、喜んでもらえたときも、一緒にながめて『綺麗だね』って同じ気持ちになるときも、……その都度幸せを感じるんです」
「……ええ、そうですね」
いつしか口元には微笑が浮かんでいた。彼女がなにを言わんとしているのか、おぼろげながらつかめてきた。
「いつか花は枯れてしまいます。私たちの想いも変わってしまいます。生きているんだから避けられません。……でも、美しいひとときや幸せを感じたことがあった『事実』は、不可侵のものではありませんか?」
諦念(ていねん)と希望が溶け合って、安らぎをもたらす。記憶の棘が、徐々に削られてまろく変わる。
おそるおそるこちらを見つめる瞳が、たとえるものも見つからないほど美しく感じられた。
彼女を愛しいと思う心を持っていることが、うれしかった。
「……すみません、えらそうなことを言って」
「いいえ。ありがとうございます」
ハンガリーは恥じ入ったように首をすくめた。あわい紅に染まった耳朶(じだ)が可愛らしい。
「忘れていたようです。花を贈るときはいつも、まじりけのない気持ちだったことを」
感謝を伝えたかった。だから花を贈った。枯れてしまうことなど頭になかった。未来など関係なく、そのときの感情にただ突き動かされていた。
花を贈るときはいつも真摯(しんし)だった。誰が相手でも、常に想いをこめて渡してきた。感謝、祝福、羨望、憧憬、友情、愛情。一瞬の想いを、刹那の美しさに預けた。
美しければ美しいほど、失われてしまったときの痛みは大きい。もしかしたらそれは代償なのかもしれない。けれど、還らないものは還らない。それは絶望であり、福音でもある。
ふてくされたような言葉が恥ずかしくなる。彼女がどこか心もとない表情をしていることに今さら気づいた。その理由がなんとなくわかって、穏やかに語りかける。
「貴方に花を贈るとき、私は真剣に貴方を愛しているのですよ。もちろん、その前と後も」
「っ……は、はい!」
驚きと喜びを含んだ声が、高く弾んだ。はにかんでいるのは、彼女のしこりを打ち消せた証拠だろう。
「私も、です。大好きって気持ちをこめて、オーストリアさんに花を贈ってます」
「ありがとうございます」
知ってはいたが、改めて聞かされると少し恥ずかしい。目を見交わして、互いに照れくささをごまかすように笑った。
「ハンガリー」
「はい」
「一息ついたら出かけませんか。貴方に、花を贈りたいんです」
そして、……スイスにも。
彼は送り主の名を見て顔をしかめるのだろう。それでもおそらく、ああだこうだと理屈をこねて、窓辺に花を飾るに違いない。隣には愛する妹、リヒテンシュタインがいるはずだ。
花を贈ったのが誰か、などということは忘れてしまってもかまわない。ただ、その花が美しくあったことと、大切な人とそれをながめたことだけを記憶にとどめておいて、いつか想い出に昇華されればいい。
彼は知っているだろうか。エーデルワイスの花言葉を。
「私からも、オーストリアさんに贈っていいですか?」
「もちろんです」
お互いに恥じらいながら微笑みをかわした。
「高貴な白」の名を持つエーデルワイスが、そんな二人を見守っている。
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11/06/04