腹部戦線異状あり
起き上がるのを面倒くさがって、ベッドに寝たまま床に落ちてる下着を拾おうとしたら、落ちそうになった。
「きゃあっ!」
支えるものがなんにもない無重力感。心臓もひゅっと浮き上がる。でも、オーストリアさんが私を力強く抱き寄せてくれて、なんとか落ちずに済んだ。
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
まだ心臓はうるさく弾んでるけどうなずく。密着したオーストリアさんの体温が、一気に冷えた私の身体をあたためてくれる。
「ありがとうございます」
いえ、と答える声にかすかな疑問がにじんでいる。みぞおちから下腹部のあたりまでをなでられて、ひゃあ、なんて変な声を出してしまった。
――これってもしかして、再戦のお誘いですか?
「ハンガリー」
「はいっ!」
――もしそうなら喜んでお相手します!
元気よく返事をすると、オーストリアさんはめずらしく歯切れ悪く言った。
「少し、お腹のあたりがふっくらしましたか?」
「えっ」
一瞬、頭が真っ白になった。最近の食生活がぐるぐると頭を駆け回る。
――オーストリアさんのところでトルテを食べて、イタちゃんのところでジェラートとかパスタとかをごちそうになって、それからえーと。
思い当たりしかない。それに加えて、ここのところデスクワーク続きで身体を動かす機会が減ってた。そういえば、スラックスとかスカートのボタンが留めにくくなってた気がする。
血の気が引いていく。認めたくないけど、要するに……太った。
「ハンガリー?」
「そそそ、そんなことないですよ! 気のせいです!」
あわてて腕の中から抜け出す。シーツを巻きつけて身体を隠した。オーストリアさんの頬にキスをしながら、固く決心する。
――やせよう! 可及的(かきゅうてき)速やかに!
太るのはカロリーの摂取量が消費量を上回っているから。つまり、逆になればやせる。理論的には。
脂っこいの(なんでうちの民族料理ってそういうの多いの?)と甘いのは控えて、仕事前の散歩と仕事後のジョギングをすることにした。私は元騎馬民族だから、身体を動かすことが苦にならない。むしろすっごくさわやかな気持ちになる。
だけど、好事、魔、多し。そんなときに限って、絶対参加しなきゃいけない立食パーティーとか、古くからの知り合いからお土産(食べ物)が贈られたりする。
さらに、太るときは腹回りから肉がついてくのに、やせるときは胸から落ちていく。納得がいかない。日本さん風に言うなら遺憾の意。
神様、私、なにか悪いことしましたか? ちょっとやせたいなーって思うのはそんなにダメですか?
そんなわけで、ダイエットはあまり進まなかった。泣きたい。だけど神様の意地悪はそれだけじゃ終わらなかった。
『トルテを食べに来ませんか?』
受話器から、オーストリアさんのやさしい声。
オフの今日こそは! って張り切ってランニングウェアを着て、家を出ようとした正にそのタイミングでかかってきた電話。
いつもなら一も二もなくハイテンションでうなずいていたけど、というかうなずきかけたけど、ぐっとこらえた。
「ごめんなさい、……今日は無理です」
『他に約束が?』
いいえ、と答える自分の声が胸でつぶれた。本当は行きたい。久しぶりに会いたい。
「あまり体調がよくないんです」
私はどうしてオーストリアさんに嘘をついてるの?
ぐらりと立ちくらみがした。そこから世界がひび割れていくみたい。
『大丈夫ですか?』
嘘つきの私を本当に心配している様子で、泣いてしまいそうになる。
「平気です。また今度」
つっけんどんな調子になった。電話を切ってもしばらくその場から動けない。罪悪感と悔いが、だらりと長い尾を引く。
「……よぉっし、がんばろ!」
気合いを入れて外に出た。
要はやせればいいのよ。そしたら堂々と会えるし恥ずかしくもない。トルテだって好きなだけ食べられる。だから、がんばらなきゃ。
陽射しがぎらりと肌に焼きついた。
いつもの倍以上にコースを回って、家に戻ってきたころには太陽がかたむいていた。あたりは夕焼けの茜色に染められている。
お風呂に入ってさっぱりしたら控えな夕食にして、また夜のジョギングをしようっと。そうだ、夕食は――
「……!」
自宅の門前の人影を見て、思考が途切れた。
白い箱を胸に抱えて、長いコートのすそを風にもてあそばせているその人は。
「オーストリアさん!」
どうしてここにいるの!?
あわてて駆け寄る。私を見て、彼はほっとしたような、いぶかしがるような、変な顔をした。
「出かけていたのですか?」
「はい。ジョギングに」
汗くさいかも。におわないように距離を取る。
「気分が悪いのに?」
そういえばそういうことにしてたんだった。運動のせいだけじゃない汗が流れるかと思うくらいギクリとしてしまう。多分顔にも出た。
「は、走ったらスッキリするかな、って」
「そう、ですか」
絶対変に思われてる。
「そんなことより、なんでここに? いつから?」
後ろめたさをごまかしたくて、つい責めるような口調になった。オーストリアさんはなんにも悪くないのに。
「貴方が『体調が悪い』と言うので、様子を見るために来たのです」
トルテも渡したかったですし、そう言って箱を示した。
「……ですが、その必要はなかったようですね」
押しつけるように箱を渡すと、コートのすそをひるがえして背中を向けてしまう。
オーストリアさんは私のために、トルテを持ってわざわざ来てくれた。それなのに、私は。
「待ってください!」
ロングコートをつかんで引き留める。振り返ったオーストリアさんの、つり上がった眉にひるんだ。
どうしよう、すごく怒ってる。でも、このまま別れてしまうのはいや。
「ごめんなさい」
「……」
「お待たせしたことも、お気持ちをムダにしたことも、全部謝ります」
謝って済むことじゃないなら私にできることはなんでもやるから、だから。
「行かないでください」
手が伸びてきて、私の頬を包んだ。冷たい。秋も深まったこの季節に、いつ来るか分からない相手を、立ちっぱなしのまま待つのはつらかっただろう。それほど想ってくれているのに。
「わかりますか? 私は今、とても寒い思いをしているんです」
「……すみません」
うつむくと、静かな声が聞こえた。
「いいえ、許しません。貴方のいれたあたたかいコーヒーを飲むまでは、決して」
顔を上げる。彼はおかしそうに笑っていた。怒りの気配はもうない。
胸がじわりと熱くなって、泣きそうになる。この人に愛されて幸せだと、強く思った。
「よろこんで」
コーヒーができるまでの間、シャワーを浴びることにした。汗くさいままでいたくない。特に彼の前では。
さっぱりしたあと、期待をこめて体重計に乗る。あんなに走ったんだから、少しはやせたはずよね。
「……」
針が示したのは、昨日と変わらない数値だった。期待が消えて私の身体だけが残っても動かない。ズルいかな、と思いつつ片足を上げても変わらない。
なんというか……かなりショック。期待しただけにダメージも大きい。がっかりしながら服を着た。動作がにぶくなるのはしょうがない。
ダイニングには香ばしさが満ちていた。オーストリアさんができ上がったコーヒーをカップに注いでくれていた。お皿にはトルテもある。
ああ、なんて幸せで残酷な光景。
「どうぞ召し上がってください」
「ありがとう、ございます」
一口食べた。やさしくて繊細な甘さがとにかく恐ろしい。だってそれは、ゆくゆくは脂肪に変わってしまうのだから。
トルテをほったらかしたままコーヒーをちょびちょび飲む。ブラックは口に合わないけど、砂糖とミルクを入れたらダイエットにならない。
だけどあんまり苦すぎるもんだから、顔がくしゃくしゃになる。どうして彼はブラックで平気なんだろう。
「どうしました? 全然食べていませんよ」
「え、えっと」
口ごもると、さっきみたいに目がけわしくなった。
「貴方はなにを隠しているのです」
「なにも、隠してなんか」
「嘘おっしゃい。ならばなぜ、目をそらすのです」
ぎくしゃくと紫の瞳を見つめる。その中に私がいた。どんな風に映ってるんだろう。すごく太って見えてたらどうしよう。
オーストリアさんにはいつだって真心を持って、正直でありたいと思う。彼も私にはそうしてくれるから、応えたい。
だけど、「太った」なんて言ったらきっと嫌われちゃう。
考え続けると頭がパンクしそうになった。
「ハンガリー?」
ぬくもりを取り戻した手が、私の髪をなでる。
「わ、私、……お腹に」
脂肪がついてしまったんです。……やっぱりこんなこと、言えるわけない。でも言わなくちゃ。
葛藤していると、オーストリアさんがはっと息をのんだ。
「……まさか」
オーストリアさんは、私の髪をなでていた手を急に止めて、いきなりその場にひざまずく。
それは、何百年も昔に見たものとまったく同じ光景だった。
「結婚してください」
口から出る言葉も変わらない。だけどなんでこんなことになるのか分からずにいたら、真剣な瞳で見つめられた。
「貴方も、貴方に宿った命も、私のすべてをかけて幸せにします」
一瞬意味がつかめなかった。めまぐるしく考えて、気づく。
――誤解されてる……!
「ち、違いますっ!」
「もう隠さなくてもよいのです。一人で悩ませてすみません」
確かに隠したり悩んだりしましたけど、そのことじゃありませんってば。
これ以上勘違いが進まないようにするには、恥をしのんで正直に言うのが正解なんだろう。
「太っちゃっただけなんです」
全力を振りしぼった告白だったのに、むしろ拍車をかけてしまう。
「子どもができれば太るのは当然です」
「……そうですね」
なんだかもう、それでいいような気がしてきた。少しだけ、夢を見てみたい。
普通の女の子みたいに、好きでたまらない人と結婚して、子どもを作って。そして孫に囲まれて安らかに死んでゆく。
でもこれは現実逃避だ。それに、どうせ叶わない夢なら、早く覚めなくちゃつらい。
「子どもはできてません」
「……はい?」
誤解の余地がないくらいきっぱり言うと、ようやくオーストリアさんが冷静になった。ぱちぱちとまばたきする。
「子どもはできてないんですけど、私、太っちゃったんです。だからやせたくて、甘いものはひかえめにしようと思ってて」
「どうして隠していたのです」
「だって、太った私なんか、お嫌いでしょう?」
みじめになってきた。恥ずかしい。消えてしまいたい。
「とりあえず、椅子に戻ってください」
「そうですね」
座り直したオーストリアさんは黙っている。その沈黙が怖い。
「……すみません」
「お馬鹿さん」
声の響きは思いの外やさしくて驚いた。私を見つめる瞳も穏やかだ。
「それくらいで嫌いになりません」
「本当ですか?」
「当たり前です」
「……よかったぁ」
ほっとした。だけど、太ったという事実はオーストリアさんがどんな反応をしても変わらない。
「トルテ、食べちゃってください」
オーストリアさんは気にしなくても私が気になる。服のサイズも合わなくなるし。
皿を押し出すと、ため息をつかれた。
「そんなに気になるなら、私もダイエットのお手伝いをしましょうか?」
「いいんですか?」
びっくりしながら聞き返すと、トルテを押し戻しながら答えてくれる。
「ええ。最近は身体を動かすことも減っていましたから、ちょうどいい機会です」
「約束ですよ!」
「はい」
そんなわけで、次のオフのランニングは、オーストリアさんと一緒だった。
「さあ、もう一周行きますよ!」
「す、少し休憩しませんか?」
「ダメです」
↑普通系目次に戻る
↑小説総合目次に戻る
09/11/22 (「アリアはまぼろし」に掲載)
12/03/27 改稿再録