愛しき歳月
昔、「愛しています」の言葉とともに捧げられた指輪があった。
私はそれを涙ながらに受け取って、愛しいあの人に手ずからはめてもらった。
けれど、私たちがその誓いを守りきれたのは五十年と少し。
お掃除やお洗濯を済ませて、なんだかそわそわと落ち着かない気分でいた。
お皿は全部洗って食器棚にしまってあるし、部屋は掃除してあるし、私自身もお風呂に入ってさっぱりしている。全部ちゃんとしているのにむずむずして、居心地が悪い。
前触れなくインターフォンが鳴り響いた。不意打ちすぎて、心臓がジャンプする。息を整えて玄関に向かう。誰かな、なんて思うけれど、期待するのは一人だけだ。
「こんにちはハンガリーさん!」
鼻先を甘い香りがかすめた。え、と目を見開くと、視界いっぱいに柔らかな花びらが広がる。とりあえず花束を受け取って、やってきた訪問客の顔を確かめる。
栗色の髪と、それによく似た色合いの瞳。髪を左右に流して、正面から見て右側に一本だけ飛び出た毛がある。
「イタちゃん?」
「うん、俺だよー」
一緒に下働きをしていたころとは身長も体格も逆転してしまったのに、変わらない様子で彼は笑う。そんな彼がすこし、うらやましい。
「どうしたの、急に。そうだ、あがって。何か淹れるわ」
期待は外れたけれど、彼のことは別に嫌いじゃない。花を片手に中を示すと、イタちゃんは首を振った。
「ううん、俺はそれを渡しに来ただけだから」
「そうなの? え、でも、なんで」
仲はいいけれど、なんの脈絡もなく花をもらう覚えはない。わけが分からない。
「その内に分かるよ。おめでとう、ハンガリーさん!」
イタちゃんは「ヴェー」と鼻歌を歌いながら、スキップしつつ行ってしまった。ぽかんとしてしまったけれど、気を取り直して貰った花を生けることにする。
「これ、バラよね」
八重の花びらはドレスのフリルみたい。じゃあ香りは香水だろうか。棘は一筋縄ではいかないやんちゃなところ。香りや見た目にうつつを抜かすと足を蹴られる。
華やかな宮廷音楽と、さざめきのようなドレスが浮かんだ。あの人と手を取って、くるくるといつまでも踊り続けた。
首を振って打ち消す。そんなこと考えたってしょうがないのに。
またチャイムが鳴った。イタちゃんかな、と予想をつけてドアを開く。
来訪者は背が高くて、陽の光を完全にさえぎっていた。後方からの陽射しが金色の髪を透明に見えるほどにきらめかせる。
「元気、か」
うろたえる声は低く、青い瞳はせわしなく揺れる。
「ドイツ」
「あー、その、これをお前に」
押しつけるように箱を渡すと、すぐにきびすを返してしまう。
「え、ちょっと、一体なんなの」
すごい速さで遠ざかる背中に向かって言うと、怒鳴り声で返事がくる。
「あいつに『よろしく』と伝えろ!」
「あいつ」って誰のこと? っていうかこの箱の中身はなに。
つりそうなくらいに内心で首をかしげながら箱を開ける。山吹色の布地が折りたたまれて入っている。
服かなと思って取り出してみれば、テーブルクロスだった。ところどころに花や楽器の刺繍が入っている。ピアノを見つけて、指先でなぞった。
イタちゃんもドイツも、なんで贈り物をしてくるんだろう。分からないけど、気持ちはありがたいから両方ともちゃんと活用することにした。
テーブルの上にクロスを敷いて、真ん中にはバラを生けた花瓶を飾って。単純だけど、それだけでなんだか嬉しくなった。二人には感謝しなくちゃ。
朝早くから掃除とかをしていたせいなのか、なんだか眠い。ふあ、とあくびをして、テーブルに突っ伏す。テーブルクロスからは新しいにおいがした。
時計が鳴っている。
その音がやけに頭に響いて、眠気が薄くなった。枕がわりにしていた腕がしびれて痛い。
喉の渇きを覚えて、頭がふらふらするまま立ち上がった。なんだか立ちくらみがする。冷蔵庫をあけて、コップに注いで飲み干した。
なんとなく右手を見つめる。薬指には何もない。
――昔、「愛しています」の言葉とともに捧げられた指輪があった。
私はそれを涙ながらに受け取って、愛しいあの人に手ずからはめてもらった。
けれど、私たちがその誓いを守りきれたのは五十年と少し。
指輪はどこかに消えてしまった。そういう時代だったと片付けるのはたやすいけれど、今でも心のどこかで後悔と執着がうずいている。
ため息と水を同時に飲むと、三度めのチャイムが鳴った。今日は千客万来だ。
ドアを開けて来訪者の顔を見て、動きを忘れる。
「こんにちは」
三度めの正直。待ちかねた人がついに現れた。泣きそうになりながらしがみつく。なだめるように肩を叩く手があることが、こんなに嬉しいなんて。
オーストリアさん、オーストリアさん、オーストリアさん! 私の愛しい人。
「動けないですよ」
苦笑まじりに言われても離れたくなくて、手に力をこめた。優しい手の平が私の髪をなでる。
「会いたかったんです」
「私もです」
そうあるのが当たり前みたいに唇が重なった。腰を抱かれて居間にオーストリアさんを通す。
新品のテーブルクロスとバラが目に入って、ようやく二人の意図を理解する。来るって知ってたんだ。恥ずかしいな。
「何か飲みますか?」
「いいえ。それよりも、渡したいものがあるんです」
「なんですか?」
彼の隣に座る。目を閉じるように言われてそうした。
右手を持ち上げられる。中指にひやりとした冷たさ。
「目を開けてみてください」
ドキドキしながら見てみる。細いリングに、虹色にきらめく宝石。それはまるで、記憶の中の、無くしてしまった指輪のような。
慌てて彼の顔を見る。にこりと笑って、プレゼントです、そうささやく。
「これ、これ……」
なんで私にはこんなに語彙がないんだろう。何か言わなくちゃと思えば思うほど空回りする。
「昔、くれたものですか」
「いいえ。ですが、はい」
どういうこと?
「屋敷からデザイン書が出てきたんです。それを元に、現代風の中指用にしてもらいました」
今の貴方は薬指にはめるわけにはいきませんからね、と彼は補足する。
言われてみれば、記憶よりもすこし細い。それに薬指のが中指に入るわけない。
「受け取っていただけますか」
彼の笑顔が曇った。顔をおおって、何度もうなずく。
「結婚記念日……覚えていてくれたんですね」
六月八日。
百数十年前の今日は、私とオーストリアさんが永久の愛を誓った日。けれど、それは時代に砕かれた。
バカみたいかもしれないけれど、私はずっと忘れられなくて。だから毎年この日が来るたびに気持ちがざわざわして落ち着かなくなる。
「当たり前です」
言葉通りの口調で肯定されて、我慢できなくなる。彼も同じ気持ちでいてくれた。こんなに幸せなことなんてない。
「『夫婦』でなくなっても、私の気持ちは変わりません」
「わた……もです」
涙でうまく言えなかった。
別れから何十年も経ってもらった二つめのリング。絶対に無くしたりなんかしない。
もう何があっても。
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墺洪結婚記念日
09/06/08