肖像



 ドキドキしながらノックをした。重厚なドアは案外軽い音を立てる。
 向こうから気配が近寄ってきて、やがて内側に引かれた。記憶よりも低くなった位置から視線が注がれる。
「こんにちは、ハンガリーさん」
 彼女は驚いた顔をして、それから微笑む。陽射しに髪がきらめく。
「いらっしゃい」
 家へ上がるように促し、先に立って応接室へ彼を導く。通されるのが居間ではないことに少しばかり淋しさを感じたが、一人前だと認めてもらっている、と思うことにする。
 一度奥に引っこんだ彼女は、茶菓を持って戻ってきた。彼の向かい側に座る。
「会うの、久しぶりね」
「うん」
 いつ彼女の背を追い越したのか分からない。それほど昔ではないだろう。
 幼いころは見上げていた顔が下にあるのは違和感を覚えるが、緑の瞳は相変わらず優しい。
「オーストリアさんは?」
「今はピアノを演奏してる時間なの」
 言われて耳をすませば、確かに旋律がどこからか聞こえてきていた。幼いころにのぞき見したのと変わらずに、オーストリアはピアノを弾いているのだろう。
「そっか」
「もうちょっと待てば、こっちに来るはずよ」
 笑みは柔らかい。茶器を持ち上げる彼女の右手の薬指で銀色が輝く。きっと、今はピアノを弾いている男の指にも、サイズは違えど同じものがはめられている。
 わけもなく、彼女は上機嫌だった。どんな話でも笑ったし、言葉も表情もクリームのようにふわりとしている。
「ハンガリーさん、幸せなんだね」
 そう言うと、顔を朱に染める。だが、返事は決して否定ではない。
 一緒に召使いとして働いていたころから、彼女のことを姉のように慕ってきた。彼女を想う気持ちは恋ではなく、家族に向ける情愛だと理解している。
 それなのに、胸がぎゅっと締まった。
 愛に満ちている誰かを見ていると、なんだか悔しいような切ないような気持ちがする。
「うらやましいな」
 彼女にそれほど想われる相手も、昔から一人だけを一途に想っている彼女も。
 ああ、この気持ちは嫉妬に似ている。
「イタちゃんったら」
 気がつくと音が止んでいた。こつこつと靴音が近づいてきて、応接室のドアが開く。
「ああ、来客は貴方だったのですか」
 オーストリアはごく自然に彼女の隣へ座った。まだ赤面したまま、彼女は彼の分の茶を注ぐ。
 そんな二人の姿はまるで肖像のように美しく、なおさらイタリアの心を動揺させた。


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09/06/27
 
 

ただいまの前に



 ただいまの声を喉で凍らせて、ルートヴィッヒは立ち尽くしていた。
 休日、彼と兄のギルベルトの家にエリザベータが遊びに来た。なにか飲み物を出そうと思ったのだが、あいにくストックが切れていた。
 そこで彼が買い物に行き、帰ってきてみたら。
 彼から見えるのは兄の後頭部だった。エリザベータの顔は死角になっていて見えないが、少し首をかたむけているのは分かる。
 二人は唇を重ねていた。ときおり濡れた音が響く。彼女の肩をつかんでいる手は頭に回って髪に絡まり、そのまま背中を下りて腰へ。
「ギル」
 背筋がぞわりとするほどの色っぽい声だった。いつもの彼女なら絶対にありえない。
「なんだよ」
 彼女は両手を首に預けた。細い指が銀の髪に埋もれる。
「ルートヴィッヒに、見られちゃう」
 いきなり自分の名前が出てきて彼はたじろいだ。心臓が激しく動く。深呼吸をしたかったが、気づかれてしまいそうでできない。
「まだ帰ってこねえよ」
 いや、帰ってきているのだが。そして彼女の懸念どおり、ばっちり見てしまっているのだが。
「きゃっ」
 兄はやめるどころか、ソファーの上に彼女を押し倒した。亜麻色の髪が布のように広がる。じたばたもがく脚があだっぽい。スカートがめくれて中身が見えそうになる。
「なに考えてんのよ」
「いいじゃねえか少しくらい」
 拗ねた声だ。彼女の肩あたりで銀の頭が動いている。
「バカ、……っぁ」
 彼女の身体が跳ねた。首に回ったままの手がぎゅっと服にしがみつく。
「あんまり声、出すなよ」
 手が彼女のスカートにもぐっていくのを見たのを最後に、ようやく彼は廊下に戻った。荒くなっている鼓動を収めようと、深呼吸を繰り返す。
 そうしていると、にぶい音となにかが落ちる音が響いた。ゆっくり十まで数えて、彼はなに食わぬ顔で再び居間に入る。
「ただいま。……」
 兄は床に倒れていた。その背中を、フライパンを手にした彼女が踏んづけている。
「あ、お帰り」
 彼女はにっこりと笑った。
 その首筋と服の合間に赤い斑点が見え隠れすることを指摘するほど、野暮ではない。


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09/06/27
 
 

淡い夢見



 生ぬるいものが頬を舐めている。
 目を開くと、白い綿毛のようなものが目前で揺れていた。手を伸ばしてそれに触れると、きゃん、と高い鳴き声。
 捕まえながら身体を起こすと、なんのことはない、花たまごである。黒いつぶらな瞳が輝く。遊んでほしいらしい。
 周囲を見回すと、ボールが落ちていた。シーランドがまた片づけ忘れたようだ。後で注意しなくてはならない。
 とりあえず投げると、力を入れすぎたのか、ボールは居間を通り越して廊下の端まで転がっていった。しかし花たまごは楽しそうに追っていく。
 テレビはすでに砂嵐に変わっている。横になっていたソファーの下からリモコンを拾い上げて消した。時計に目をやる。
「うひゃ」
 廊下から声が聞こえた。ぺたぺたという足音が近づいてくる。
「あれ、スーさん」
 フィンランドはボールと花たまごを抱えている。寝巻き姿だった。
「お水でも飲もうかと思って部屋を出たら、花たまごがいたんでびっくりしましたよー。まだ寝てなかったんですか?」
「今がら、寝る」
 そうですか、とフィンランドはうなずいた。花たまごを小屋に入れ、ボールを片づける。その様子を彼はじっと見ていた。
 視線に気づいた向こうはおどおどとこちらの様子をうかがう。
「な、なんですか」
 ――平和だな、と思う。
 支配された時代もあったし、逆に支配した時代もあった。
 戦いの絶えない日々に疲れはてたこともあったのに、今では警戒すらせずにのんきにうたた寝している。
 もしかすると、まだ自分は夢の中にいるのかもしれない。それなら、いつかは目覚めて全てが幻に消えてしまう。
 いや、夢だとしても。それでも、「今」が幸せだ。
 そう言ったらフィンランドはなんと答えるだろうか。
 口にしようとして、けれどそれはいつものように、達せられることはない。
「……なんでもね」
「そ、そうですか」
 台所に行くフィンランドと別れ、自分の部屋に向かう。
 シーランドを叱るのは別の機会になりそうだ。


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09/06/06
 
 

融解する感傷



「ベラルーシちゃんの髪って、雪みたいだね」
 リトアニアはしまりのないにやけ面で言った。私はふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「嬉しくない」
「……ごめんね」
 まるでご機嫌取りみたいに(というか実際そうなのだろう)とりなす態度に余計イライラする。
 クソ、その顔面にナイフを突き立ててやりたい。
「雪、嫌いなの?」
「私は別に好きでも嫌いでもない」
「え?」
 リトアニアは首をかしげる。答える義務も義理もないけれど、気が向いたから教えてやることにした。
「兄さんは雪が嫌いだから」
 温もりを求めて南を目指している兄さん。兄さんにとって雪なんて疎ましいものでしかないのに、似ていると言われても嬉しくない。
「そう」
 暗い相づち。なんだかむしゃくしゃして、彼の指をへし折ることにした。
「え、ベラルーシちゃん」
 何を勘違いしたのか、リトアニアは顔を赤らめた。痛そうな表情一つ見せない。自分の指がどうなっているのかも分かっていない。
「大嫌い」
「うん、知ってる」
 なぜそこで笑う。
「でも、俺はベラルーシちゃんのこと、好きだよ」
「嬉しくない」
 どうして兄さんはこんな男に執着するのだろう。大したところもないのに。それなら、よっぽど私の方が。
「……だいっきらい」
 もう何もかも全部、雪のように融けてしまえばいいのに。


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09/04/26
 
 

Снег



 雪の降る日、妹はやって来る。


「にいさん」
 声が間近に聞こえて、耳をふさぐ手にますます力をこめた。何の意味もないのはわかっているけれど、それでもせずにはいられない。
「帰って」
 頭を振ると、笑う気配がする。幼い子どもの、邪気のない笑い声。
「どうして?」
「帰って……!」
 冷たい手が髪に触れる。


 幼いころのある冬、大雪が降った。
 姉さんは風邪でダウンしていたから、僕と妹は二人だけでそりで遊んだ。


「ねえ、あそぼ」
 子どもに特有の頑固さでねだる。焦れたように僕のマフラーを引いた。
「わたし、そりにのりたい」
 僕はもう一度首を振った。
「帰って」


 そりを引いて、二人で近くの丘にのぼった。
 その日、家に帰ってきたのは、僕だけだった。


「どうしてあそんでくれないの」
 哀しげな声に、顔を向ける。尖った唇は紫で、肌は透き通るように青白い。
「にいさん、あそんでよ」
「……できないよ」
「どうして」
 目をそらして答える。
「だって、君は」


 雪のようなプラチナブロンドが白銀に散っている。
 そしてじわじわと、


「君は」
 唇がふるえる。僕に触れる小さな手を振り払って、逃げ出してしまいたい衝動をこらえる。膝がガクガクした。
「死んだんだ」


 そしてじわじわと、広がっていく、赤。
 灰青の瞳は宙を見上げたまま虚ろで、瞬きさえしない。
 怖くなって、その場から逃げ出した。大人たちは騒いだけれど、雪融けの季節になっても彼女は見つからなかった。


「なにいってるの、へんなにいさん」
 クスクスと笑う声は、あれから十年以上経つのにあどけないまま。
 自分の死さえ知らずに彼女は笑う。
「そんなことより、あそんでよ」
「帰って……」
 涙がこぼれた。みっともなく嗚咽しながら、ただ頭を振る。今見るもの聞こえるもの感じるもの、全てを否定して。
「僕を恨んでるなら、いっそ殺して」
「なんのこと? わたしはただあそびたいだけよ」
「許して」
 僕の懇願など知らぬふりで、彼女はただ僕を呼ぶ。
「にいさん」


 雪の降る日、妹はやって来る。


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国百物語(企画終了)に参加した作品です。
09/04/20

<補足>
・Снег→(露)雪