貴方に、安寧を



「ハン、」
 出かかった声を飲みこんだ。足音を忍ばせて、カウチの上の彼女に近づく。細い肩が吐息に合わせて上下する。……寝ている。
 揃ったまつげの可憐さにしばし見とれた。彼女のうずくまったポーズが寒そうに思えて、自分のコートをかける。表情がゆるんだように感じるのは気のせいだろうか。
 寝顔は普段よりも幼い。微かに開いた唇から、安らかな息が行ったり来たりしている。それだけなのに妙に微笑ましい。
「うぅ……ん」
 彼女が身じろぎすると、亜麻色の髪が顔にかかった。その一房をつまむ。よく磨かれた鍵盤のような艶やかさに少し驚く。
 また手に取る。興味が沸いて、指の腹でなぞってみた。絹のようになめらかな感触が残る。
 思い返してみれば、彼女はいつも肌と髪の手入れを念入りにやっていた。その成果がこれなら、女性の執念には驚くしかない。
 この長い髪を揺らし、剣をふるう勇ましい姿を思い出す。アテナの再来かと思うほどの強さ、美しさ、気高さ。
 彼女には助けられてばかりいる。
 だからせめて今だけは、ゆっくり眠らせておきたい。誰にも壊せない安らぎに守られていてほしい。
 そう思っていると、彼女の唇がわずかにあがった。笑っている。どんな夢を見ているのだろう。
「オースト……リアさん」
 虚をつかれた。気恥ずかしさや、ぼんやりとあたたかい感情が遅れてやってくる。
 夢の中の自分は彼女を笑わせている。現実の自分も負けてはいられない。笑っていられるように、努力しなければ。
 胸に誓いを宿し、頬に口づけた。
「貴方に、安寧を」
 つぶやいてその場を立ち去る。
 召使に言って、彼女に毛布をかけさせよう、と思いながら。


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流星クラブの葵瀬悠弥さんへ3万ヒットと相互の記念に贈らせていただきました。
ご希望は「墺洪で甘」。
09/04/18
 
 

黎明に



※「いただきます。」に掲載している「足跡、新雪に。」(R18)のハンガリー視点です。
ネタばれ、多少卑猥な表現を含みます。



 新雪に足跡を残して去っていくプロイセンの背中を、窓からながめていた。
 姿はどんどん小さくなる。窓を開けて名前を呼ぼうか迷っていたけれど、もう、どんなに叫んでも声は届かない。
 目を伏せると胸元の赤い痕跡が見える。一つや二つじゃない。幼い子どもがはしゃいで走り回ったあとの雪原みたいに、てんでばらばらで規則性なんてないところに散らされている。
『忘れないように残しとこうと思って』
 馬鹿プロイセン。忘れられるわけがないじゃない。
 ぬるぬるした足の間に、「彼」がもぐりこんでくる感触。引き裂かれるような痛みと、身体を駆け巡る熱と、……全身を満たす幸福感。もう二度とできない経験。
 シーツのほぼ真ん中、横になったらお尻がくるくらいの場所にある、黒ずんだ血のシミ。私が身も心もすべてを彼に与えた証拠。
 どうして忘れるなんて思えるんだろう。はじめて、「女」でよかったと思えた瞬間だったのに。
 自分の本当の性別を知ったところでつらいだけだった。ずっと男として生きてきたのに、今さら女になれるわけがないと思ってた。服装や言葉遣いを変えてみても、どこかしっくりこなかった。オーストリアさんの孤独に気づくたびに感じるむなしさや悔しさだけが、どこか異質だった。
 だけど、彼を迎え入れたとき、自分の中にすんなりと「女」が染みこんだ。あのえも言われぬ感覚は、きっと一生記憶に残る。
 左胸に残された痕を指先で押さえる。
 たとえばこの痕が消えてしまっても、ここにあったことは覚えてる。
 忘れないで。私も、忘れない。
 夜明けの光が雪原を明るく照らして、ホワイトアウト寸前の光を放った。
 まぶしくて目を細めながら見た窓の外には、点々と足跡だけが残っていて、もうそこにプロイセンはいなかった。


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11/09/24 初出(イベント特典)
12/01/10 改稿再録
 
 

憧憬の窓辺



 男がいつもその腕に抱いていたのは、彼の愛する小さな子分、ただ一人だけだった。
 少年にだけ向けるやさしい笑みに、少年にだけ与えるやさしい抱擁に、少年にだけ聞かせるやさしい声に、いったい何度焦がれたことだろう。
 新大陸での稼ぎを注ぎこんだ聖地防衛。はがゆくなるほどのすれ違いと和解。そのすべてを、彼女はただ、見ていることしか許されなかった。
 楽園と呼ばれていた南の国は、彼女の持っていないすべてを持っていた。にも関わらずいつも不機嫌な顔をしていて、そのことがひどく彼女を傷つけた。
 一体なにが不満なのだろう。なにもかも彼女より恵まれていながら、この上なにを望むというのだろう。
 男は彼女に冷たい眼差しを向けた。男は彼女をひどくぶった。男は彼女を罵った。少年に与えるやさしさは、欠片すらも垣間見せない。
 うつくしくて、みにくくて、うらやましくて、ねたましくて、うれしくて、かなしくて。まるでそこだけ別世界のような「親分と子分」の光景を、憧憬のため息でくるんだ。
 やさしさが欲しいとは言わない。そんな身の程知らずの願いは抱(いだ)かない。見ているだけでいい。憧れているだけがいい。
 二度めに漏らしたため息は湿っぽく、窓ガラスを曇らせた。


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10/04/05 初出(ブログ)
11/06/12 改稿再録
 
 

春待夜



 ――夜をあたためている。
 星のない夜空に私の白い息が吸いこまれてゆくのを見ながら、思った。
 こうしてずっとここで息をしていれば、夜があたたかくなる気がする。そうしたらきっと、兄さんも喜んでくれる。
 もう一度息を吐くと、白。雪と同じ色。兄さんはきっと、この色が好きじゃない。
 あたたかい夜が来たら、兄さんは私を愛してくれる。結婚してくれる。だから何度も息を吐き出し続けた。身体が冷えて、少しずつ白が減っても、ずっと。
 兄さん、愛しています。貴方のためなら、私に不可能はないのです。
 あたためてあたためて、春が早く来ればいい。


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10/02/20 初出(ブログ)
11/06/12 再録