優等生と策略家
会議の会場に着いたのは予想よりも早い時間で、参加国の姿はまばらだった。
時間に厳しい国々(ドイツや日本など)の他に、遅刻しがちなアメリカが珍しくちゃんと間に合っているのはホスト国だからだ。
エストニアは、とりあえずホスト国のアメリカに挨拶をした。映画を一緒に撮ったということもあり、感触は結構いい。
この様子なら、もしかしたらこちらの意見を支持してもらえるかもしれない。コネというのは便利だ。
小腹が空いたアメリカが近くのマックに行ってしまうのをなんとも言えない気分で見送ったあと、控室でコーヒーを飲む。
イギリスさんはきっと紅茶を自分で持って来るのだろうな(あの人の家で会議があるとき出される紅茶は絶品だ)、と思っていると。
ドイーン。
廊下から漏れてきた、聞き慣れていなくもない音。ウクライナの、あの豊満な胸が発するものである。
部屋の中からそっとのぞくと、やはり予想は当たっていた。彼女は涙目であたりをきょろきょろしている。どこからどう見ても困っている様子だった。
……彼女のことが気にならない、と言えば嘘になる。
なぜか男が多い国家たちの中、女性国家は希少だ。抜群の体型は言うまでもなく、少しおっちょこちょいなところは庇護欲をそそるし、柔和な顔立ちは彼の好みだ。
唯一にして致命的な問題は、彼女が「あの」ロシアとベラルーシの姉である、ということである。
その時点で距離を取る男たちは多かった。要はエストニアも、ご多分には漏れなかったわけである。
一つ屋根の下に住んでいたころも、必要最低限しか関わりを持たなかったくらいだ。ソビエトの家を出たあとはますます疎遠になり、今では世界会議などで顔を合わせる以上の関係はなかった。
だが、困っているのを見過ごすのは気が咎め、気がつくと彼女の肩を叩いていた。
「ウクライナさん」
「あっ、エストニアくん! 久しぶり、元気だった?」
三日前、同じ会議に参加したばかりである。しかも、隣の席だった。ペンを忘れた彼女に自分の予備を貸しさえしたのだが。
いかに彼女の眼中に自分が入っていないかを見せつけられるようで、内心でため息をついた。この場はさっさと終わらせてしまおう。
「どうかなさったんですか?」
「うん、あのね、アメリカくんが今日のホストだから挨拶しようかなって思ってたんだけど、見当たらなくて」
ごしごしと潤んだ目をこする。濡れた瞳が妙に大人の雰囲気を出していて、どぎまぎした。
「アメリカさんは、マックに行ってます」
「ええっ、そうなの?」
「はい。もうちょっとしたら帰ってくるんじゃないでしょうか」
「そっかぁ……」
なにか考える様子を見せてから、彼女はエストニアに微笑みかけた。
「教えてくれてありがとう」
「いえ。じゃあ、僕はこれで」
控室に戻ろうとしたのだが、呼び止められた。
「スーツのボタン、取れてるよ」
「え。……あ」
ジャケットの、上から二番めのボタンがなくなっていた。参ったな、と顔をしかめる。着替えや替えのボタンは手元にないのだ。
「よければ、縫ってあげようか?」
「裁縫セット、持ってるんですか?」
「うん。……ほら、私、こんな胸してるでしょ」
彼女は怪音の響く胸を指した。目のやり場に困っていると、「そのせいで」と続ける。
「よく服のボタンが取れちゃうの。だから、ボタンの替えと裁縫セットはいつも持ち歩いてるのよ」
「……大変なんですね」
世の中には見ているだけでは分からない苦労があるのだ。改めて実感する。
「うふふ、まあね」
好意に甘えることにして、彼女を自分の控室に招く。部屋の中に彼女の存在が広がって、包みこまれる気がした。
「すぐ終わるから、ちょっと待ってて」
脱いだジャケットを受け取り、彼女は針を動かす。指を刺したりしないかと不安になったが、手つきは慣れたものだ。一体何回そんな経験をしているのだろう。
部屋に、ドバイーンババイーンと彼女の胸の音が響く。これは回りくどい逆セクハラではなかろうか。彼とて男子の端くれであるのだ。
「……はい、できた」
本当にすぐだった。替えのボタンも元のものとそっくりで、近くでまじまじと見ない限り分からないだろう。
「ありがとうございます」
「ううん、いいのよ」
にっこり笑った顔は純粋で、本当にあの兄妹の姉かと思うくらいだ。
「男の子って、見た目のわりにスーツがおっきくてびっくりしちゃった」
「男の子」。明らかに格下だと思われているのが、事実なだけにショックだ。なんというか、彼女は一言多い。
じゃあね、と言って、ウクライナは部屋を出ていこうとする。小さな背中を、思わず引き留めた。
「あのっ、ウクライナさん!」
「なあに?」
首をかしげる角度が愛らしい。えっと、と気持ちを落ち着かせた。
「今日の会議のあと、ボタンのお礼に、なにかごちそうさせてくれませんか」
「え」
彼女は驚いたようにまばたきした。手のひらに汗が浮かんで、スラックスに押しつけてぬぐった。
「ごめんね、今日は用事があるの。アメリカくんと」
バルトの優等生。そう呼ばれた頭脳が、むやみに二人の関係を推し測ってしまう。アメリカはいないと聞いて考えこんでいた姿まで深読みする。
「……そうですか」
本当に彼女は一言余計だ。そんな自己申告はいらない。もしこれが意識した予防線ならとんでもない切れ者だが、そうではないだろう。
「ねえ、来月の世界会議にエストニアくんも参加するでしょう?」
「はい」
それがどうしたというのだろう。
「その日なら空いてるの」
頭の回転の速さには自信があるのに、反応がにぶった。理解はできたのだが、嬉しすぎて信じられなかったのだ。
「どうかな?」
きらきらした水色の瞳を見ているうちに、策略かどうかなど邪推することすら馬鹿らしくなった。
「僕の予定は――」
返事は、もちろん。
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10/02/25 初出(ブログ)
10/03/02 改稿再録