耳鳴り



 黒板に明日の日付を書き入れながら、彼女の心臓は今にも止まろうとしていた。
 原因は、背後からじっと見つめてくる視線だ。放課後の二人しかいない教室に、チョークの音がこつこつと響く。
「ヴァルガス」
 いきなり名前を呼ばれた。その瞬間に心臓が止まってしまいそうになる。
「な、なに?」
 ビクビクしながら振り返る。西日で教室はオレンジに染まっていた。金髪で伏し目がちの青い瞳の少年が窓際の席に座り、彼女を見ている。
 彼女は彼が苦手だった。怖いとさえ思っている。彼はいつも無言で彼女を見つめてくるのだ。しかもそれでいて、話しかけるとむすっとする。
 誰とでも仲よくできる彼女だったが、彼の方にそのつもりがないのなら、うまくいくわけもない。それなのに日直の組み合わせが決められてしまった。次は友だちに代わってもらおうと本気で考えている。
「曜日が違う」
 確認してみれば、確かにその通りだった。
「あ、ありがと」
 本当に、わけが分からない。誤字を修正してチョークを置く。手から粉を払い、黒板消しを手に取り、黒板脇のクリーナーのスイッチを入れる。低い音が騒々しく教室に響く。
 無駄に時間をかけて綺麗にして、恐る恐る彼の席に近づく。日直日誌はほとんど埋まっていた。彼の字は彼女よりも上手で見やすい。近くに来てほしくなくて頼んだのだが、任せてよかったのかもしれない。
 まだ空いているのは日直のコメント欄だけだ。視線に気づいたのか、シャーペンを差し出された。先に書け、ということらしい。
 シャーペンをくるりと回して、日誌に先端を置く。だがなにも書けなかった。彼がじっと見ているので、なんだか書きづらい。
 ちょっと向こう向いてて、とも言えずに、気まずく頭を働かせた。他のことに彼の注意をそらそうと思いつき、とっさに頭に浮かんだことを口にした。
「部活、なにに入ったの」
 話しかけられたことに彼は驚いたようだ。だが返事は早い。
「サッカー部」
「そうなんだ、私は美術部に入ったよ」
 視線がわずかに軽くなるのを感じる。この調子だ。
「エスカレーター組?」
 彼女たちの通う学校は歴史がある私立校で、小等部から在学し、そのまま中等部や高等部に上がるものが大半だ。彼女もその一人である。
「受験」
 しかし、中等部から受験して入ってくる者もいる。そういった生徒たちはかなりの秀才ぞろいだ。
「すごいね、頭いいんだ」
「別に。普通だ」
 そうは言うものの、頬にうっすらと朱がさしている。
 話してみれば、それほど怖い相手ではなかった。口調はそっけないが、無視はされない。口下手なのかもしれない。
 あとは視線の理由を聞ければもっといいのだが、そこまで突っこむ度胸はなかった。
「書かないのか」
「え。あ、うん、書くよ」
 彼は話にごまかされなかったらしい。ちょっぴり気落ちしながら、無理やりひねりだした当たり障りのない内容を書いていく。二行ほど書いて、これ以上はもう無理だった。
 シャーペンと日誌を彼の方へ押しつける。彼はシャーペンを手に取り、さらさらと何事かを書き出した。自分が見られていたときの気持ちを思い出し、彼女は時計に目をやる。
 もうそろそろ最終下校の時間だ、と思ったそのとき、それを告げるチャイムが鳴った。ちょうど彼も日誌を書き終わり、カバンを持って立ち上がる。
 彼女も慌てて帰り支度をした。数分後に出る帰りのバスを逃すと、次は十数分後だ。
「戸締りはしたよね?」
 せかせかとたずねると、しっかりとしたうなずき。
「した。……日誌は俺が職員室に提出しておく」
 すぐに駆け出したいのをぐっとこらえた。言うべきことがある。
「ありがとう」
「大したことじゃない」
「また明日ね!」
 バス停へと走りながら、また彼と日直になってもいいような、そんな気がしてきていた。


“×月○日
日直って大変だー!
でもがんばった。次もがんばる。

き ょうしつは誰もいない。
み みなりがするくらい静か。
が っこうは無人だと雰囲気が
す ごく変わる。
き ょうは楽しかった。”


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女子たちに明日はないに参加している作品です。
09/07/03