Eine Göttin des Sieges
※プロイセン=東ドイツ設定でベルリンの壁について扱っています
――女神はどんな顔立ちをしていただろうか。
壁の向こうのブランデンブルク門の上、四頭立ての馬車に乗り、オリーブの枝を掲げた勝利の女神の背を見ながら思う。
最後に彼女を正面から見たのは、壁が建設される十年以上前だ。忘れてしまうのも当然と言えた。
実はこの街に来ること自体も久しぶりだ。陸の孤島と化したこの街への物資の空輸機に無理を言って乗せてもらい、どうにか懐かしい土を踏むことが叶った。……多分、もう二度とこんな機会はない。
夏がきたのに、壁の周囲だけはひんやりとつめたい。まるで兄貴を連れていったあの男のようだ。
――兄さん。
壁は情報すら阻む。手紙は何度か書いたが返事は来なかった。おそらく返事を書ける状況にないか、どちらかに届く前に検閲が入り廃棄されたのだろう。
銀色の髪や、赤い瞳、傲岸な態度、フルートの音、そんな些細なことがただ懐かしかった。
けれどそれらも女神の容姿のように、日を追うごとにおぼろげになる。兄さんと撮った写真は全て没収されてしまった。
だから今俺と兄さんをつないでいるのは、ペンダントにした鉄十字だけだった。
『お揃いだぜ』
兄さんはまだ持っているだろうか。俺のことを忘れずにいるだろうか。……いや、忘れていてもいいから、ただ無事であってほしい。願いはそれだけだ。
壁に沿って歩く。
壁が低くなった場所で、小柄な女性が一歳にもならなさそうな赤子を抱えて、精一杯背伸びをしていた。どうやら壁よりも高い場所に子どもを上げたいらしい。だが彼女の身長では無理そうだ。
見過ごすことができず、俺は彼女に声をかけた。それにそんなことをする理由が知りたかった。
「なあ」
彼女の最初の反応は警戒だった。俺としては普通にしていても、周囲から見れば威圧感を放っているように見えることが多々あるらしい。眼鏡の元居候の言葉がよみがえる。
「俺はただの通りすがりなんだが、困っているように見えたから声をかけてみたんだ」
なんだかイタリアお得意のナンパでもしている気分だ。下心など全くないのに(子どもがいるからには、夫がいるはずだ)恥ずかしい。
「何か手助けできることはあるだろうかと思っただけだから、安心してほしい」
表情から警戒が和らいだ。
「助けてくれるの?」
「俺にできることなら」
「その子をあげてちょうだい。壁の上まで」
「ああ……わかった」
実際にやってみてもどんな意味があるのかさっぱりわからない。壁の向こうでいきなり歓声があがり、ますます困惑は深まった。
向こうからの歓声を聞いて、彼女は微笑む。ただし目は寂しそうな色を変えなかった。できることなら自分が子どもになりたい、とでもいうような。
それでようやく状況が飲みこめた。
彼女は壁の向こうの誰かに自分の子を見せたかったのだ。だから門の上まで持ち上げようと必死になった。直接会うことは絶対にできないから。
「祖父母なの」
遠い目で壁を見ながら言われた。期限を告げずにただそこに在り続けるそれは、彼女にはどのように映るのだろう。
「最後に会ったのは、私がまだ子どものころよ」
抱えた子どもがきゃっきゃと笑う。この子が見るのはどんな光景だろう。
もういいわよ、と言われ子どもを下ろす。子を抱く彼女はどこか尊く、だが、どうしようもなく悲しい。
「向こうに会いたい人はいる?」
「兄が、いるんだ」
「そう……」
女性とはその場で別れて、俺はまた門の見えるところまで行った。
くすんだ色の壁は、いかにも脆そうに見える。だが誰もそこを越えられない。東から西に行こうとする者は容赦なく銃撃される。
羽のある背中をじっと見つめ、ただため息をもらすしかできない自分が歯がゆい。
――女神の顔を再び見る日が、いつか来るだろうか。
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09/03/27
<補足>
・Eine Göttin des Sieges→(独)勝利の女神