夢の楽土



 できる限りの速さでお弁当をかきこむ。水筒のお茶を一気に飲み干した。短く息をついて片づける。
「どうなさいましたの? そんなにお急ぎになって」
 一緒に食べていた友だちが不思議そうに尋ねる。机から教科書を取り出して、あいまいに答える。
「ちょっと用事が、あって」
 彼女は私の持っている教科書を見て、事情を察したらしい。くす、と微笑んだ。
「聞けるといいですわね」
 何もかもお見通しなのだ。そんなに分かりやすいかなと思うと照れくさくて、つい苦笑した。椅子を机に押しこむ。
「行ってらっしゃいませ」
「ん、行ってくる」
 教室を出て早足で階段をのぼる。美術室とか調理室とかの特別教室しかない最上階は、いつ来ても埃っぽくて蒸し暑い。時が止まっているみたい。
 耳を澄ませば、かすかに音が聞こえてくる。独特な雰囲気を持つ最上階にはぴったりだった。それが時の流れを操っているみたいに。
 誘われるように源をたどった。「音楽室」のプレートのある教室の前で立ち止まる。窓から中をこっそりうかがう。
「……」
 教室の前方に漆黒のピアノがある。椅子に一人の男が座っている。
 音楽担当のローデリヒ・エーデルシュタイン先生だ。眼鏡の奥の瞳を閉じて、黒髪を揺らしながら旋律を溢れさせている。
 彫刻みたいにふっくらした指先が鍵盤を押さえる。滑らかな動きは水の流れみたい。音の一つ一つが胸をざわざわさせる。
 早食いのかいがあった。先生の演奏が聞けるなんて、今日は一日中幸せな気分でいられそう。午後のきつい陽射しが背中をじりじり焼くのも気にならない。
 和音が広がって、夢のような時間が途切れる。余韻をまといながら先生は目を開けた。そして視線が合う。
 盗み聞きしてるのがバレた。
 どうしたらいいのか分からなくて固まっていると、先生は立ち上がって私を手招きした。心臓が止まりそうになりながら、ドアを開ける。
 コンサート会場とかにあるような、防音式のそれは重い。力を入れないと負ける。
 軽くなったと思ったら、内側から先生が開けてくれていた。それだけなのにどきりとする。
 教室に入って、ピアノに近い席に教科書を置く。ここはピアノも先生も堪能できる極上のアリーナ席だ。
「なぜ入らなかったんです?」
「邪魔かな、って」
 先生が演奏しているとき、そこには異空間ができるように感じた。私がいたら壊してしまいそうでできなかった。
「気にしなくてもいいですよ」
 ふっと表情をゆるめる。不意打ちすぎてドキリとする。先生はいつも私の心臓を攻撃する。何個あっても足りない。こういうのを「恋泥棒」って言うんだろうか。
「それにしても、ずいぶん早く来ましたね。授業までまだ時間がありますよ?」
 昼休みはまだ半分あるのに来たのは、先生の演奏が聞きたかったからに尽きる。そしてその目的はもう果たされた。
 だけど、こうして会話するのは予定に入ってない。
「音楽室が、好きなんです」
 あながち嘘じゃない。メインがそのものかそこにいる人かの違いだ。
「私もです」
 そう言われたら、音楽室そのものも好きにならざるを得ない。次の授業までに音楽室についてのうんちくを仕込もうと決心する。
「そうなんですか」
「はい」
「……」
「……」
 いきなり沈黙が下りた。気まずい。
 こんなとき嫌になる。例えば友人だったら他愛ない話でも許してもらえるし、恋人なら見つめあうだけで会話になる。
 だけど私はただの生徒の一人。ある位置から先には踏みこめない。会話の糸口すら見つけられない。
 もどかしくて、歯がゆくて、イライラするのに、進むことも退くこともできない私は臆病だ。だからこんな沈黙は嫌い。
「今日の授業は何をするんですか」
 なんとか話題をひねりだす。先生と生徒の距離を生かしたそれは禁じ手に思えたけど、すがるしかない。
「今日は新しい合唱をやります」
「なんですか?」
「『流浪の民』です」
 知らない曲だ。首をかしげると、先生はピアノ椅子に座った。
「こんな曲です」
 タタン、とリズミカルなメロディ。ぼんやりと聞き入って、はっと我に返る。合唱曲集のページを繰って歌詞を見る。
 ――ぶなの森の葉がくれに
 ――宴ほがい賑わしや
 思わず眉が寄った。単語が難しすぎる。なにこれ?
 悩んでいる内に伴奏は止まっていた。葡萄色の瞳がコメントを待っている。高尚なことが言えればいいのに、あいにく私の頭は素朴にできていた。
「これ、何の歌なんですか」
「ロマ――『ジプシー』とも言いますが――を題材にしたものです」
 そうなんだ。「キャンプファイヤーに使えそうですね」って言わなくてよかった。
「作曲はシューマン、訳詩は名訳だと言われています。安住の地を持たぬ彼らの悲哀を表した美しい曲です」
「そうなんですか」
 もう一度楽譜を見る。どのパートもキツそうな音程だ。
 でも、頑張らなきゃ。
 先生に感心されたい。好きになってもらえるなんて思わないけど、一目置かれたい。特別になりたい。それくらいなら許してもらってもいいじゃない。
「歌ってみていいですか。私、パートリーダーですから」
 何を隠そう、私は合唱のときに同じパートの人たちをまとめるパートリーダーだった。ソロを任されることもある。
 決めるときに、押しつけ合いに痺れを切らして仕方なく引き受けたように装うのは大変だった。あのときの私は間違いなく女優だった。
「もちろん。ソロパートもありますよ」
 先生はまた前奏を弾いた。歌に入るところで、分かりやすいように音を取ってくれる。それに重ねるように声を出した。
 先生の伴奏に乗った私の声はいつもよりも綺麗に聞こえた。伴奏と声が一つになって、高く舞い上がる。
 外してしまったところもあるけど、なんとか歌いきった。腹式呼吸のしすぎで頭がクラクラする。腹筋が緊張してる。
「どうでした、歌ってみて」
「テンポがころころ変わって難しいです。フォルテッシモのところがつらいです」
 高音で強く歌うところは本気で倒れそうだった。新手の拷問かと思ったくらい。でもそこをちゃんとできたらすごく達成感がありそう。
「みんな最初はそうです。それに、最初にしては上手ですよ」
「ありがとうございます!」
 お世辞かもしれないけど、褒められるとやっぱり嬉しい。
「もう一度歌いますか?」
「はい!」
 いちにさん、でまた伴奏が始まる。息を大きく吸った。


 ――ねぐら離れ鳥鳴けば
 ――何処往くか流浪の民


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09/05/28