それでも、家族
食欲をそそる香りが家中に広がっていく夕飯時。中年の男性がスープを一口味見して、少し首をひねった。
隣のダイニングでは、がっしりした体格の青年が仔ネコとたわむれている。猫じゃらしを模したオモチャを揺らし、ネコが捕まえそうになる直前でひょいと逃げる。
静かな空気を壊したのは、近所に響くかのような足音である。ばたばたと近づき、やがて、ダイニングの扉が開いた。
「サディク!」
怒鳴る声は雷のように甲高い。それもそのはず、その主は少女である。茶色みを帯びた金髪を怒りで膨らませ、眉をきつくつり上げている。
「なんでぃ、エリザベータ」
キッチンから男性が顔をのぞかせると、少女は片手を腰に当て、もう片方を男性に突きつけた。
「私とサディクの服、一緒に洗わないでって言ったでしょ!」
「なんでぃ、どうせ洗うなら一緒の方がいいだろぃ」
悪気はなさそうに男性は言ったが、少女はイラついたように足を踏み鳴らした。
「臭いが移っちゃうじゃない! お気に入りの服が台無しよ!」
「なっ、俺は臭くねえやぃ! だろ、ヘラクレス!」
話を振られた青年は眠そうに目を細めた。
「ん……サディク、臭い……」
「でしょー!?」
「俗に言う『加齢臭』……」
「ヘラクレスてめぇ、いつもエリザベータの味方ばっかりしやがって!」
「だって私が言うことが正しいもの!」
ふん、と少女は豊満な胸を張った。が、ふと眉をひそめる。
「なんかクサい」
「トドメを刺すんじゃねえやぃ!」
男性は持っていたお玉を振り回す。
「そうじゃなくて」
少女の言わんとすることを、青年が引き取った。
「鍋、焦げてる……」
「うぉっ!」
男性は慌ててキッチンに戻った。少女は呆れたようにため息をつき、青年にかまってもらえずにつまらなさそうな仔ネコの喉をくすぐった。
「ヘラクレスちゃんったら、またノラの子を拾ってきたのね?」
「連れてってほしいって顔……してた……」
真顔で言う青年の腕に、別のネコがじゃれつく。頭をなでてやる顔は相変わらず眠そうだが、かすかに楽しそうでもある。
「これで三匹めよ」
「でも……ふわふわで可愛い……」
「それはそうだけど」
エリザベータはため息をついた。ネコを抱え上げ、目を合わせる。黒くつぶらな瞳がじっと彼女を見返す。にらめっこのようなひとときが流れ、先に笑ったのは彼女の方だった。
「ま、連れて来ちゃったのは仕方ないか。ねえ、この子の名前は私が考えていい?」
「ん……」
のっそりと青年がうなずく。オモチャで遊びはじめたネコは、名前をズバリ「ネコ」という。
「今度はもうちょい普通のにしたいのよねー。タマとかミケとか」
ちなみに今は外に出ているもう一匹は「ポチ」である。命名はサディクによる。
ああでもないこうでもないと少女が悩んでいると、底の焦げた鍋を抱えたサディクが「エリザベータ」と彼女を呼んだ。
「なに?」
「ヘーデルヴァーリ――おめぇの父ちゃんから伝言でぃ。電話するからメールしてくれ、だと」
「そう、分かった」
少女は仔ネコを床に下ろし、ダイニングを出て行った。
彼ら三人は、一緒に生活しているが血のつながりはない。姓も違うものを名乗っている。
エリザベータがこの家にいるのは、彼女の父親とサディクが旧友だからだ。転勤続きの生活に娘を巻きこむのは忍びないと、小学校高学年のときから預けられている。
サディクは鍋の焦げ付きを一生懸命落とし、ヘラクレスはネコとじゃれる。お互いを無視するような、張りつめた空気が流れる。
「ヘラクレス。皿、並べろぃ」
「ん……」
エリザベータが戻ってくるまでの十数分の間にあった会話はこれだけだ。盛られた料理にも手を出さず、テーブルに座っても言葉はない。
「あれ、まだ食べてなかったの? 冷めちゃうじゃない」
彼女がやって来て、ようやく二人の時間が動き出す。
「いただきまーす」
「ん……いただきます」
「おぅ、たんまり食いねぇ」
スプーンやフォークが皿とぶつかり、硬質な音を立てる。競うような静けさが流れ、最初のサディクが口をひらく。
「ヘーデルヴァーリの用はなんだったんでぃ」
「ああ、学校の三者面談よ。なんとか都合がついたみたい」
「三者面談?」
サディクはいぶかしがる顔をした。「知らなかったの?」とエリザベータは目を丸くした。
「だって、サディクにはヘラクレスちゃんから、……」
次第に口調が重くなる。彼女は気まずそうな表情でヘラクレスを見やる。
「どうなってんでぇ」
きつい口調でサディクが問いただす。ヘラクレスはいつものぼんやりとした表情を崩さない。
「来なくていい……」
「そういうわけにはいかねえだろぃ。てめぇの進路によっちゃ、こっちも――」
「サディクには関係ない……」
のんびりしながらも、子どものようにかたくなな口調だった。
「あぁ!?」
「落ち着いてよ。ケンカしたってしょうがないじゃない」
怒りっぽいサディクを、エリザベータが冷静になだめる。二人の間に入って仲裁をするのが彼女の役割だ。
「ごちそうさま……」
つっけんどんに言い、ヘラクレスはのそのそとダイニングを出て行った。さりげなく完食している皿を見つめ、彼女はうなる。
「ヘラクレスちゃんって、なに考えてるのか全然分かんない」
「俺だってお手上げでぃ」
サディクは頭をかく。ちらっと、テーブルの隅にある写真立てに目をやった。
「母親なら、分かるんだろうなぃ」
写真の中には、女性と幼いヘラクレスがいる。女性は母親だ。サディクは唯一の肉親を亡くして身寄りのない彼を引き取った。十年近く昔の話になる。
「ちぃとも俺に懐きやがらねぃ」
「気持ちは分かるけどね」
エリザベータは深々とうなずく。舌打ちして、サディクは天井を仰いだ。
「……最近のガキは可愛げがねえやぃ」
ドアの前で、エリザベータは深呼吸した。コンコン、と軽くノックをする。返事が聞こえたので、遠慮なく入る。
室内はプラネタリウムになっていた。壁やカーテンや机に、白っぽい点の星が輝いている。呆然として立ち尽くしてしまう。
「明るくて……見えないから……閉めて……」
「あっ、ごめん」
後ろ手にドアを閉める。暗くすると星の量が増えた。床に置かれた映写機を蹴飛ばさないように気をつけつつ、ベッドに寝そべるヘラクレスに近づく。
「どうしたの、これ」
「ん……買った……。星、好きだから……」
「そ、そう」
つくづくなにを考えているのか分からない。床に座りこんで、ぼんやりと偽物の星を眺めた。本物の方は曇り空に隠れて見えない。
数分ごとに星座が変わる。ヘラクレスがその星座にまつわる神話を教えてくれた。低いささやきは夜と調和するようだ。じわじわと眠気を誘う。
「ところで……なんの用……?」
「えっと……なんだっけ」
あくびを漏らして、反射的にうるんだ目をこする。
「そうそう、名前、どうしようかなって。ネコの」
普通って、なかなか難しいのね。つぶやく彼女の頬に、星が一つ。
「ゆっくり考えれば……いい……」
「そうなんだけど、早くちゃんとしたので呼びたいじゃない」
「そう……」
また星座が変わる。
「ねえ、ヘラクレスちゃん」
「なに……」
「ごめんね、ペラペラ話しかけてウザい?」
「別に……。話すより、聞く方が好き……」
「そっか。ありがと、ごめんね」
セリフは早口ぎみだ。もじもじと髪をいじり、彼女はぼそぼそつぶやいた。
「さっきの電話で、お父さんがね。……大学生になったら一人暮らしはどうだって、言ったの」
「……」
「大学生なら自分のことは自分でできるし、一人暮らしってちょっと憧れるし、……いつまでもサディクに迷惑かけてられない、から」
最後は、あいまいに引きつった顔で付け足された。
「ここの生活、結構好きだけど……甘えてられないよ」
深いため息が部屋中に響く。
「ため息つくと……幸せ……逃げる……」
「分かってるわよ。……あーあ、どうしよ」
虚構の星空がまたたく。
私は本物の方が好きだわ。エリザベータはそう思った。
久しぶりに締めたネクタイは固い感触がして息苦しい。廊下を歩きながらこっそりとシャツの第一ボタンを外し、サディクはため息をつく。
結局、ヘラクレスの三者面談には彼が出ることになった。当日の朝、エリザベータと登校する間際まで「来るな……」と言っていたが。
まあ、心配はしていない。成績は上位をキープしている。頑固なところはあるが要領はいい。大学に行くのなら支援の用意はある。本人が望むことをさせてやりたいと思う。
――俺もすっかり「保護者」だぜぃ。
意識するとこっ恥(ぱ)ずかしい。無意味に咳払いをして、不機嫌そうな顔を作る。ポケットに手を突っこむと落ち着いた。
それにしても、学校というのは閉鎖的なところだ。門扉は開いても、不透明な膜のようなものがやわらかに部外者を拒んでいる。居心地が悪い。
面談をする教室の前の廊下には、すでにヘラクレスがいた。窓辺の椅子に座り、ぽかぽかとあたたかい陽射しを浴びて、気持ちよさそうに……眠っている。
てめぇはネコか。内心でつぶやいて、パンと手を鳴らす。びくっと身体を弾ませて起きた。
「……サディク」
バツが悪いのをごまかしたいのか、彼への嫌悪感を表したいのか、たぶん後者が強めの両方だろうが、ヘラクレスは眉をしかめた。
構うことなく、その隣にどっかと座る。ちらりと腕時計を見ると、予定時間を数分オーバーしていた。前の生徒の面談が長引いているのだろう。
「……」
「……」
足も腕も組んで、ややのけぞる。こうするといくらか楽だ。端から見れば、ふんぞり返ったオヤジにしか見えないのだろうが。しかし実際に外見も中身もオヤジなのだから、いたしかたない。
することがないと暇だ。さっきヘラクレスが居眠りしていた気持ちも分かる。だがそれを真似れば、仕返しとばかりに手を叩かれるだろう。シャクにさわるガキだ。
通りすぎる女生徒たちの笑い声が、ぎょっとするくらいの大きさで廊下に反響した。試しにため息をつけば、それもこだまする。
「退屈なら……来なければよかったのに……」
軽蔑するような目付きや間延びした口調ががいちいちイラつく。もっとしゃきっとしてハキハキ話せばいいものを。
「馬鹿言ってんじゃねえやぃ。お前が独り立ちするまで、俺には責任があるんでぃ」
「別に、いらない……」
「そうはいくかってんでぇ。てめぇの母ちゃんに顔向けできなくなるだろうがぃ」
求婚には一切うなずかなかった女が、唯一、彼に懇願したこと。それは、遺してゆく息子の将来だ。
分かった、と引き受けたそのときから今まで、ずっとその約束がこびりついている。
ヘラクレスは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。その仕草に自分を見るようで、彼は思わず苦笑した。時間は雄弁だ。
「ねえ、映画、見に行かない?」
結局「マロン」と名づけられた仔ネコをなでる手を止める。エリザベータが手に持ったチケットをひらひらと揺らしていた。ソファーで新聞を読んでいたサディクも彼女を見ている。
「いいんじゃねえか。ヘラクレスとおめぇの二人で行って来い」
「なに言ってんの、サディクも行くの! チケットは三枚あるんだし」
わざわざ広げて見せてくる。確かに三枚あった。
「なんの……映画……?」
「今上映してるものならなんでも見れるの。なにを見るかは行ってから決めましょ」
こちらの意向も聞かず、行く前提で話が進んでいる。まあ、異存はない。
「ん……行く」
「どうせ暇だし、付き合ってやらぃ」
「じゃあ、さっさと支度してね」
そんなわけで、映画館に行ったのだが。
「他のお客と盛大に笑うのが映画の醍醐味! ここは『ネーム・アラーン』よ!」
「なに言ってやがんでぃ、映画は火薬と爆薬とアクションだろぃ! 『大バード』だ!」
「『ニャン局物語』……。ネコ、可愛い……」
「ああもう、二人とも協調性がないんだから!」
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09/12/22