エゴイストたちの純情



 広いリビングに入って見えたのは、その中心にあるソファーに座っているエリザベータだった。
 ただ座っていたわけではない。分厚い本をひざの上に置き、それを広げたまま、……寝ていた。
 オーディオから流れるクラシックを乗せた風で、本のページがぱらぱらとめくれる。長い髪も、同じ風によって盛大にぐしゃぐしゃにされていた。
 一瞬固まってしまったギルベルトだが、すぐにあきれ混じりのため息をついた。リビングを横切って窓を閉める。彼女の足元に落ちていたショールを拾い、汚れをはたいてから肩にかけた。
 そして、ひざに置かれた重厚な本を持ち上げた。なにげなくタイトルを見て、表情が強ばる。化け物でも見るかのような目つきで彼女をながめた。
 クラシックがリビングに満ちていく。さっきまでは開いていた窓から逃げていた音が、今は閉じこめられて空間を狭めている。バイオリンの伸びやかさも、ピアノの軽やかさも、檻(おり)の一部でしかなくなった。
 根が生えたようにそこから動けずにいると、人の気配に気づいたのか、エリザベータのまぶたがぴくぴくと動いた。重たい吐息を漏らしながら、ゆっくりと瞳を開ける。
 現れた緑がぼんやりと彼を捉え、まばたきのたびにクリアになっていく。
「ギル……?」
「よ、よぉ」
 動揺で声が裏返ったが、寝起きのおかげか気づかなかったようだ。
「なんか用?」
「ルッツから渡してくれって頼まれたものがあって、持ってきたんだよ」
「ふうん」
 彼女は大きくあくびをして、反射的にうるんだ瞳をこする。そのときに、自分の肩にかかっているショールに気づいたようだ。
「あんたが?」
「まあ、な」
「そう、ありがとう」
 半分以上目が覚めてきたのか、口調からのろさが消えていく。ひざの上やあたりをきょろきょろして、なにかを探すそぶりを見せた。
「ねえ、本、見なか――」
 探していたものが彼の手にあることを知り、驚いた顔をする。微妙そうな表情を見て、おかしそうにした。
「変な顔」
「お前、これ」
 先を言えずに詰まってしまうギルベルトから本を取り返し、ソファーから立ち上がると、本を棚にしまった。
「見てわかるでしょ。子どもの命名本よ」
「子ども、って」
 視線を彼女の腹部に向ける。あまり変わっているようには見えない。真っ平らな固いラインだ。
「今、三ヶ月よ」
 彼女は流れっぱなしだったオーディオの電源を切り、対面式のキッチンに向かった。コーヒーメーカーに水を入れ、フィルターに挽(ひ)いた豆をセットする。
「コーヒー、飲むでしょ」
「……ああ」
 コーヒーカップやスプーンなどを取り出す音が響き、しばらく待てば、独特の芳香が広がった。できあがったコーヒーを二人分注ぎ、テーブルまで運ぶ。
 座れば、と言われ、ようやくそのことに思い至る。ぎくしゃくとソファーに腰を下ろせば、人半分くらいの感覚を空けて、隣に彼女も座った。
 コーヒーをすする音が、やけに大きく頭蓋骨で響く。
「なんか言うことないわけ?」
 どこか責めるような調子のセリフにぎくりとする。あー、とか、うー、とかうなって、頭をかいた。
「……なんか、言葉が出てこねえ」
「薄情者。ルートヴィッヒとフェリちゃんは、すぐに『おめでとう』って言ってくれたわ」
「はあ!? あいつら、知ってたのかよ!?」
 目をむけば、冷たいまなざしを向けられる。
「反応するところはそこ?」
「だって俺、なんにも聞いてねえよ! 昨日も会ったのに!」
「だらしないわね」
 つんと切り捨て、彼女はコーヒーを飲む。反論したいことは山ほどあったが、とりあえずコーヒーとともにぐっと飲み干した。
「……『おめでとう』って、言ってほしいのかよ」
「あんたが言いたいなら言えば。強制して祝われてもうれしくないわよ」
「じゃあ言わねえ」
「あっそ。勝手にしたら」
 ちらちらと腹部に視線をやっていると、バレたのか、「なに?」と不機嫌そうな声。
「ホントにいるのか?」
「いるわよ。エコー写真、見る?」
「……やめとく」
 なんとなく生々しい感じがして気が引けた。さっきの命名本だけでもかなりのダメージだったのだ。写真を見たらどうなるのか、想像に難(かた)くない。
「坊ちゃんの奴は、なんて言ってんだ」
 彼女はいきなり仏頂面を崩し、ぱっと笑顔になった。
「赤ちゃんのために、たくさん貯金するって言ってたわ」
「そうかよ」
 きかなければよかったと後悔しても遅い。胃がむかむかする。
「私が妊娠したのが、そんなに意外?」
「当たり前だろ」
「だって、私がローデリヒさんと結婚してどれくらい経つと思ってんの? 二年よ?」
 薬指の指輪が、錆びないプラチナの輝きをまとう。ただまばゆく、目を細めた。
「あんたは結婚式に来なかったから、感覚があいまいなんだろうけど」
 心のかさぶたをはがされた気分だった。ぐっと歯を食いしばる。
「リズ」
 こちらを向いた彼女を、力任せに腕の中に囲った。
「今、お前は、幸せか」
 もし、返ってくる言葉が否定であれば。そのときは、このまま彼女を――。
 それなのに。
「馬鹿なこと訊くのね」
 彼女の手が、背中に回る。
「当たり前じゃない。だって、私は母親になるんだもの」
 母親。
 その単語が、凶暴な感情をさっと一撫でして、静穏に塗り替える。
 腕から力が抜けた。今度はできる限りやさしく、小さな身体を壊してしまわないように抱きしめる。
「あいつで、よかったんだな」
 言葉が固形物ならば、きっと血がにじんでいただろう。毒々しく赤い鮮血が。
「うん。……あんたなんかにしなくてよかった」
 趣味の悪すぎるジョークだ。真実だとしても、ひたすら残酷だ。
「ねえ、ギル」
「……なんだよ」
「あんたも、幸せになって。お願い」
 張りつめたささやきが、耳にこだました。


*


 リビングから廊下に出てきたギルベルトは、こちらに気づくと立ち止まった。
「いたのかよ」
「いましたよ」
 入っていけない雰囲気を作っていたのは向こうである。責めるような目を向けられる謂(いわ)れはない。
「……どこから聞いてた」
「貴方がルートヴィッヒたちからなにも聞かされていなかった、というあたりから」
「ほとんど全部じゃねえか」
 そうでなければ、家主の自分が遠慮したりなどしない。少しは気遣いに感謝してほしいところだ。
「ローデリヒ」
 ちゃんと名前で呼ばれることは珍しく、軽く目をみはった。
「リズを、幸せにしてやれ」
 ぶっきらぼうに言ってさっさと出て行こうとするのを、腕をつかんで引き止める。うるさそうに振り返った。
「そう言う貴方の幸せは、どうなっているのです」
「お前に関係ねえよ」
「あります。そんな顔をしていると、私の妻が気に病みます」
 忌々しげな舌打ちが響く。
「妻が馬鹿なら旦那も馬鹿なのかよ」
「私はともかく、エリザベータをそんな風に言うことは許しません」
 そこはしっかりと主張しておいた。
 気を取り直して、問いを重ねる。
「貴方の幸せには、エリザベータが必要なのではありませんか」
 一瞬、空白の間があった。
 ギルベルトは決して彼を見ない。
「だったらどうなんだよ。それが本当だとして、お前は俺の幸せのためにリズと別れるのか?」
 答えなど決まっている。
「いいえ」
 そんな気は毛頭ない。新しい命が彼女に宿っている今なら、なおさら。
「だったら無駄な質問すんじゃねえ」
 力任せに腕を振り払われた。
「……確かに、何度かそう思ったことはある。力ずくでも、リズを俺のものにしようとした。でも」
 赤い瞳に浮かぶのは、憎悪ではなく、諦観(ていかん)だった。
「夫から妻を奪えても、子どもから母親は奪えないだろ」
「……」
「そこまで俺は堕ちてないんだよ。見くびんな」
 その言葉を残して、ギルベルトは去って行った。
 しばし立ち尽くしてしまったが、ふと我に返り、リビングに入る。
 エリザベータはソファーに座って、宙を見つめていた。彼が入って来たことにも気づいていないようだ。
「エリザベータ」
 声をかけると、夢から覚めたような表情でこちらを見つめる。隣に座ると、肩にもたれかかってきた。
「さっき、ギルが来てたんです」
「そのようですね。玄関で会いました」
 少し嘘をついた。あのやりとりを知らせる必要はない。
「私が妊娠してるって、知らなかったらしいんです。あいつらしいですよね」
 くすくすと笑うが、それもどこかうつろで、不安を誘う。
「そしたら……あいつ、言ったんです。『お前は今、幸せか』って」
「どう答えたのですか」
「もちろん、幸せだって答えました。赤ちゃんもいるから、って」
 彼女はそっと腹をなでる。自分の手も重ねると、ほっと息をつく気配がした。
「私、『あんたも幸せになって』ってあいつに言ったんです」
 少しずつ息づかいが乱れ、ついにこらえきれなくなったのか、彼の胸に顔をうずめた。小さな身体がしゃくる。
「幸せになってほしいって、本当に、心の底から思うんです」
 声を詰まらせながら、なにかに追い立てられるように彼女は言葉をつむぐ。
「だけど、あいつの幸せに私が必要なら、それはできません。私は、どうしても、あいつのものにはなれないんです」
 それは、エリザベータが彼のものだからだ。そのことはギルベルトも知っている。
「私を求めないでほしいって、そう思うのは、ひどいことだって分かってるんです。人の気持ちはどうしようもないものなのに。それでも、私抜きでも、幸せになってほしいって、そう願わずにはいられないんです」
「……」
「大事な幼馴染なんです。ずっと一緒にいたんです。たぶんこれからもそうだと思います。不幸な姿は見たくありません」
 残酷なことを言う人だと思った。それでも、似たものを内側に抱える自分にはなにも言えない。
 ――脳裏をよぎったのは、二年前の結婚式での彼女の横顔だ。
 ルートヴィッヒの隣の、ぽかんと空いた席。最後まで埋まることのなかったその場所に、彼女は幾度も視線をやり、そのたびに失望の色を浮かべた。
 式もそろそろ終わりに近づくころ、彼女はため息とともに頭を振り、彼に微笑みかけた。
『ごめんなさい。もう、大丈夫です』
 あのとき、あの瞬間、彼女の世界において、あの男は重要な存在ではなくなったのだ。
「ずいぶん自分勝手だって、幻滅しましたか?」
 いいえ、と否定したのは、本心だった。
 むしろ、まざまざと見せつけられた彼女のエゴにほっとしたくらいだ。
 夫婦でありながら、彼女は気を遣いすぎるきらいがあった。びくびく怯えながら薄衣ごしにふれてくるような感覚を、何度もどかしいと思ったことか。
 ようやく、ありのままの彼女が手のひらにやって来た。
 ならば……おそらく次は、自分の番なのだ。
「もしよろしければ、私の話も聞いてくれますか」
 彼女は、幼い子どものようにこっくりとうなずいた。
 これから暴露する、嫉妬や猜疑(さいぎ)にまみれた話は、きっと難なく受け入れられるだろう。
 ごてごてした衣服を脱ぎ捨ててふるえても、すぐ隣にあたため合う人がいるなら、なにもこわいことはない。
 彼女の腹から、きゃらきゃらと笑う子どもの声が聞こえた気がした。


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10/06/01