憂鬱の存在意義についての一考察
――やっちまった。
スーツの内ポケットに手をつっこんだまま、固まった。そこにあるはずのものがない。そう、俺の財布が。
どこで失くした。なに入れてたっけ。ざあっと血の気が引いて、頭の中がパニックになる。ぐらぐらめまいがして、自販機に手をついた。さっきまではどれ飲もうか迷ってたとか、うそだろ。
とにかく、落ち着け、俺。焦ったってなんにもなんねえだろ。ほら、深呼吸。ひっひっふー。
いつ、どこで落としたのか、まず思い出せ。駅でICカードにチャージしたときは絶対あった。そのあと財布をポケットにしまって……ない。
ため息がもれた。帰宅ラッシュの満員電車にすし詰めにされて、足を踏まれて、酔っ払いに酒臭い息を吹きかけられて、きわめつけがこれだ。
重い足取りで駅に向かう。多分返ってこないけど、遺失物届けを出すために。そのあと、カード会社に連絡してカードを停止しよう。
なんで俺の人生はこうなんだろうな。
満員電車の中で息を殺して、会社では上司の無茶ぶりと部下の尻拭いの板ばさみ、休日は家で一人楽しくゴロ寝。うるおいなんてありゃしない。
こんな大人になりたかったわけじゃない。こんな人生を望んだわけじゃない。俺のあずかり知らぬところで、勝手に歪んだんだ。
少しだけ泣きそうになって、そんな感情をため息で流した。
財布が見つかった、という電話があったのはその二日後だった。
『失くされてすぐくらいに届けられていたそうです。おそらく、中身は無事ではないかと』
よかったですね、となにげなく添えられた言葉に、見えるわけもないのに深くうなずいた。今なら性善説だって信じられる。
会社が終わったらすぐに引き取りに行く、と話をつけた。よかった。本当に、よかった。
「届けた人の連絡先、教えてくれませんか? お礼が言いたいんです」
こういうパターンはよくあるのか、駅員の対応は手馴れていた。手帳に走り書きした名前に、目を細める。
エリザベータ・ヘーデルヴァーリ。
昔の映画を気取って「いい名前だ」とかつぶやいたって、バチは当たらないだろう。
財布を受け取って浮き足立った気分のまま、「エリザベータ・ヘーデルヴァーリ」の連絡先に電話をかけてみる。
数回コール音が続いて、「はい」と答えたのは、どう聞いても妙齢の女の声だった。なんとなく意外だ。はやる気持ちを抑えて、口をひらいた。
「エリザベータ・ヘーデルヴァーリさん、ですか」
「そうですけど……どなたですか?」
知らない番号からかかってきた電話に警戒しているらしい。
「財布を拾ってもらった、ギルベルト・バイルシュミットです」
「え」
驚いて弾む声が新鮮だ。そうそう、俺にはこういうのが足りてないんだよ。思わずによによする。
「届けてくれてありがとうございます。助かりました」
「いえ、そんな」
謙遜しつつも、まんざらでもないらしい。
「お礼の品をそちらに持って行きたいのですが、都合のつく日はありますか」
「え、えっと……ちょっと待ってください」
電話の向こうから、なにかごそごそする音が聞こえた。一分くらい待たされて、「あの」と困ったような声。
「こっちに来てもらうのはちょっと……。外にしてくれませんか」
別にかまわないけど、なんでだ? 女の一人暮らしか?
首をかしげつつ、とりあえず約束を取り付けた。来週の土曜日、二時に、駅の改札で。
目印は、彼女が髪につけた花飾り。
そして、当日。
時間よりちょっと早めに着いてしまった。待たせるよりはいいだろ、と自分に言い訳する。初デートのガキみたいだ。
柱にもたれて、改札を行き交う人の群れをながめる。目は見ていても、ぜんぜん頭に入ってこなかった。
エリザベータ・ヘーデルヴァーリというのは、どんな人物なんだ。それが気にかかって仕方ない。
話した感じは、ずいぶんしっかり者のように感じた。年齢は俺とそんなに変わらないはずだ。一人暮らしをしているなら、社会人か、最低でも大学生だろう。
やけにそわそわする。落ち着かない。これじゃ、ウブなガキと大差ねえじゃねえか。
ホームから改札に人が流れてくる。私服に、スーツに、制服に。カラフルが改札に満ちていく。
時間だ。辺りをきょろりと見回す。
「ギルベルトさん、ですか?」
よそ見をしているすきに目の前にやってきた人物が、おずおずと俺に声をかけた。
ものすごい勢いで前を向く。まず目に入ってきたのは、金茶色の髪の花飾りだった。大きな緑の瞳が俺を見上げる。つんと高い鼻筋、ふっくらした唇。
「エリザベータ・ヘーデルヴァーリ?」
「はい」
「え。……えっ!?」
目を剥いた俺を見て、彼女は不思議そうに首をかしげた。
家で会いたくなかったのは、家族にじろじろ見られるのがいやだったから、だそうだ。悪いことをしたわけじゃない、むしろ誉められるべきことをしたのに、とは思ったが、だからこそ避けたかったらしい。
「わがまま言って、すみません」
いや、と首を振る。そのことに関しては本当に気にしていなかった。なぜなら、俺の注意は、全部制服に注がれていたからだ。
自分で思うよりもずっとガン見していたらしく、彼女は居心地悪そうにもじもじした。
「午前中に登校があったので、そのまま来たんです。すみません、変な格好して来て」
「いや、そんな」
むしろ眼福だったが、それは口にしなかった。お礼の菓子折りを渡して、なんとか話題を変えた。
そこで別れることもできた。でもそれだけでは物足りない気がして、適当な喫茶店に彼女を連れこんだ。俺の名誉のために言っておくが、ちゃんと同意は得たからな。それに俺のおごりだ。
「すみません」
恐縮したように身を小さくするしぐさも、俺をちらっと見て慌てて目を伏せるのも、テーブルの上で落ち着かないように指をもじもじさせる様子も、なんというか……ものすごく、俺の好みどストライクだった。
世間ずれしてないところがさらにいいよなあ。
「あの……バイルシュミット、さん」
「『ギル』でいい。つか、別にタメ口でかまわないぜ。俺もそうするから」
正直、敬語ってのは性に合わない。相手が女子高生(響きすらなんとなく若い)ならなおさらだ。
「……じゃあ、私のことも、『リズ』でいいわよ」
恥ずかしがりながらも、口調には聞かん気の強さがにじんでいて、少し意外だった。でも、それも悪くない。そうでないと面白くない。
「じゃあ改めて。財布の件、ホントにありがとな。マジで助かった」
「そんな、当たり前のことじゃない」
――当たり前のこと。
頭を殴られたような衝撃に襲われた。目の前にいるリズは俺より年下なのに、俺を上回るものを内側に秘めているような気がして。
……高校生、か。
そうだよな。もう、充分大人だ。子どもじゃない。そんな風に思うのは失礼だ。
「俺は、その『当たり前』にかなり救われたんだぜ」
「え? どうして?」
どう言えば伝わるだろうか。
乾いたモノクロの世界に、虹色の水滴が落ちて。そうしてすべてを染め上げていくような、この感覚を。
「色々ヘコんでるときだったんだ」
「神様からのプレゼントみたいだって思ったの?」
ふざけたようにリズが言った。だけど、妙に納得してしまう。なかなかシャレてるじゃねえか。
「そうかもな」
真顔でうなずくと、リズの口元からはからかう笑みがふっと消えた。きゅ、と唇を引き結んで、ゆるめて、「どういたしまして」と小さくつぶやくのが、たまらないくらい可愛かった。
気がつけば、喫茶店の店員にやんわり「出てけ」と言われるくらいの時間が経っていたらしい。
いつの間にか日が傾いて、「空気がおいしい」とおどけたリズの髪の上で赤い光が躍(おど)った。ほつれた髪が光の糸のように首筋にまとわりついていて、どきっとする。
「今日は、色々、ありがとう」
リズがちょこんと頭を下げた。
礼儀正しい行動なのに、それがほのめかすものにいら立つ。「さよなら」の声が頭で再生されて、自分でも意外なくらいダメージを食らった。
「いや、俺こそ」
「……」
ちらりと時計を見るしぐさで、どうやらこれ以上は引き留めておけないらしい、と悟る。
いつまでも話していたいとは思う。思うけど、それは、他人との距離をわきまえていないようで、口にできない。いくら俺でも、「初対面なのになに言ってんの?」みたいな顔されたら傷つく。
「それじゃあ、ま……元気でな」
思わず「またな」と言いかけて焦った。様子を見る限り、どうやら気づかれずに済んだようだ。
「楽しかった」
「俺も」
一瞬の間。
どちらも「さよなら」とは言わなかった。もしかして、これは。ひょっとするとひょっとして。
「なあ。もし、よかったら」
馬鹿みたいに緊張している。口から心臓が出るんじゃないかと思った。
「また会わないか」
「え」
緑の瞳が大きな丸になって、俺を見上げた。
もしかして、俺、やらかした?
焦って、でもいまさら否定することもできずにいると、いきなり変な顔をした。なにかが弾ける寸前のような。
「私もそう言おうと思ってた」
「え」
二人で馬鹿みたいに相手の顔を見つめて、それから、同時に笑い出す。
携帯のアドレスを交換して、今度は「またな」の言葉で別れた。また会えることが分かっているなら、別れなんてこれっぽっちも痛くない。
こういう出会いのために日々の苦労があるなら、きっと、俺はもう少しがんばれる。そう思うと、足取りも軽かった。
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10/05/30 初出(イベント無料配布本)
10/05/31 再録