紅炎ゆれて
紅蓮の炎が醜悪な手を伸ばす。
その腕に抱かれて、彼女は苦しげに身をよじった。目からあふれる涙は、灼熱の檻から逃れるための鍵にさえならない。
焼ける、燃える、焦げる、くすぶる。
煙は彼女に灰色のヴェールを着せる。死との婚礼に向かう花嫁のために。
「――!」
声にならない叫びを上げて、気がつくと天井を見上げていた。浅く繰り返される自分の呼吸の音が耳障りだ。心臓がばくばくと乱れる。ひたいと首筋に汗が浮いていた。
息を整えながら目をつぶる。
「夢、かよ」
情けないくらいに声がかすれていた。低く自嘲して、腕を横に伸ばす。だが、ふれるものはない。
起き上がって隣を見る。空っぽだ。
下着を拾って履いてから、もつれそうになる脚を動かしてダイニングに向かう。古いアパルトマンの床がきしんだ。下の階の住人から苦情が来る、なんて思いつきもしなかった。
息せき切ってキッチンに入る。コンロに向かって立っていた彼女が振り向いた。迷わず細腰を引き寄せて抱きしめる。
「きゃ、フランシス!」
首筋に顔をうずめる。鼻先が濡れた金色の髪にもぐる。シャンプーの香りがした。腕に力をこめて密着する。力の加減ができない。
「どうしたの?」
心配そうなささやきを耳に収める。だんだん気持ちが落ち着いてきた。それでも腕を離すことができずにいる。しっかりつかまえていないと消えてしまいそうな、そんな妄想を殺せない。
「夢を、」
――夢を見たんだ。君が火あぶりになってた。
頭の中でセリフを書いて、そのバカらしさに気づく。
二十一世紀にもなって、火あぶりだって? 時代錯誤もいいところだ。
冷静になると自分の取り乱しようが恥ずかしい。誰も聞いていないのに取り繕ってしまう。
「……ごめん、寝ぼけてた。おはよう」
腕をゆるめて頬にキスを贈る。おはよう、と返ってきた。俺にも同じようにしてくれる。唇はあたたかい。生きている人間の体温に間違いなかった。
かなり香ばしいにおいが漂う。彼女もそれに気づいたのか、フライパンに目を落とす。
「焦げてる!」
ヘソを曲げてしまった彼女のために、朝食は俺が作った。元々、料理なら俺の方がうまい。「芸術家さんはそういうセンスがあるのね」なんて、屈託もなく笑う。
腹を満たして一息ついてから準備を始める。イーゼルにカンバスを立てて、筆とパレットを並べる。
「美人に描いてね」
からかいながらも彼女は椅子に座った。膝の上に手を乗せて、窓の外に視線を送る。何度かパースを確認して、線画に色をつける。
首筋が痩せたな、と思った。よく見れば、背中をおおう髪も毛先がばらばらになって痛んでいる。顔色も冴えない。外を見つめる瞳だけが、唯一、輝きを秘めて明るい。
売れない画家の俺のために、彼女は身を粉にして働いてくれていた。朝早くから仕事に出かけて夜遅く帰ってくる。ねぎらいのために、俺はうまい食事を作れるようになった。
筆を折って働こうかと、何度か言ったことがある。だがそれはいつも却下された。
貴方には才能がある、私は貴方のファンなんだからいくらだって応援する、お金のことならなんにも心配しないで、貴方は絵を描くことだけに専念していてもいいの。
恋人というよりは母親のようなことを言って、ろくでもない男のために毎日毎日汗を流している。たまの休みのときにも、こうして俺の絵のモデルになってくれる。
『彼女を楽にしてやれ』
昨日、画商であり友人でもあるアーサーに言われた。学生のころからの付き合いは言葉を選ばない。だが、真摯な気遣いが見え隠れした。
ずっとこのまま甘えていられるなんて、最初から思っていない。いつかは、区切りとかけじめとか落とし前をつけなくてはいけない。
頭では分かっていても、なかなかふんぎりがつけられない。絵を売った金でなにかプレゼントを用意してからとか、二人の記念日にとか、しょうもない言い訳をつけてしまう。
――そうこうしている内に、いつかは。
ふいに今朝の悪夢がよみがえる。炎に包まれて涙していた彼女は、今までに見たこともないほどに苦しそうで、悲しそうで、辛そうで。
これが真実なのかもしれない。俺に見えないところで、ずっと苦しんできたのだ。
彼女を、……楽に。
――分かってるさ、アーサー。
「ジャンヌ」
「なあに?」
俺に向いた姿は可憐で穢れがない、聖女そのものだ。苦しみなんて似合わない。
瞳の奥で、紅い炎が揺れる。
「結婚しよう」
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09/07/14