真夏は奇跡の



「ねえ、フェリクス」
「んー?」
 隣に座っている幼なじみはひどく上機嫌で問題集を解いている。単純さに呆れながら、彼は教科書に隠した漫画のページをめくった。
「ナターシャちゃんは、どんな浴衣を着てくるのかな?」
 ちらりと目をやる。そこだけ空気が桃色に感じられた。花が飛んでいる幻覚さえ見える。
「気が早いし。そもそも、着てくるとは限らなくね?」
「そうだね。色白だから紺とか似合いそうだなあ」
 人の話をまったく聞いていない。いつもそうだ。ナターリヤのことになると、この幼なじみは途端に分別をなくす。
 今も、今度の学期末テストで一位を取るべく猛勉強に励んでいるところだ。夏祭りで彼女とデートできる権利のために。
 順を追って話そう。
 彼の幼なじみであるトーリスは、ナターリヤというクラスメイトに盲目的な恋をしている。指をバキバキに折られても気づかないほどに。
 いつもは「恋人じゃなくてもいい。見ていられるだけで幸せ」などと、何世代前の少女漫画だとツッこみたくなるようなことを真顔で言っている。
 だが、この夏の酷暑にとうとう頭をやられてしまったらしい。「夏祭りに一緒に行こう」と、果敢と言うよりは無謀なデートの誘いを申しこんだのだ。
 どうせ即座に一蹴されると予想していたのだが、真夏は奇跡の季節だった。なんと、その申し出は認められたのだ。……ただし、条件付きで。
 それは、「学年末テストで学年一位を取ること」だった。それを最初に聞いたとき、ナターリヤのあの澄ました顔を苦く思い浮かべたものだ。
 これが、今こうして二人で図書館の一角を占領している事態の顛末である。
「あきらめた方がええと思うんよー」
「うーん、やっぱり甚兵衛はダメかな? 普段着がベターだよね」
「そこじゃないし……」
 トーリスはいつも三十位以内をキープしていた。しかし、やはり一位は一位なのだ。レベルが違う。万年追試組の彼にしてみれば、十位以上は魔の秘境だ。
 ――そんなにこだわる相手には思えんし。
 耳にタコができそうなくらいに「可愛い」と聞かされてきたが、セッコウ像のように無表情で無機質な細面のどこがいいのか、さっぱり、これっぽっちも分からない。
 それでいて、口を開けば品のない話も平気でする。そのギャップがまたいいのだと言われても、相手の熱の有無を確認する以外の反応ができない。
 タチが悪いのは、トーリスは思い詰めるタイプだということだ。これだと決めると人が変わる。そしてなりふりかまわず一直線に突っ切っていく。
 なんでもないことのように五時間睡眠(夜十一時に眠り朝四時に起きているそうだ)と聞かされたときは、すごいと思うより、正直ヒいた。
 いつもなら勉強を見てくれるのに、今はそんな余裕もないようだ。だんだん口数が少なくなり、ついには話しかけても返事をしなくなった。
 面白くない。なんだか不機嫌になりながら、漫画のコマを追った。


「お前」
 廊下ですれ違いざま、なびくプラチナブロンドに向かって、思わず声をかけていた。無視されるかと思ったが、ナターリヤは足を止めて振り返る。
 つまらないものを見るような群青の瞳が気に食わない。
「なんでトーリスにあんなこと言ったん? あいつ、必死になって勉強しとるし」
「……真に受けたのか」
 ほんの少し、能面のような顔に変化が見えたように思った。きっと気のせいだ。
「じゃあお前、本当は行く気ないん!?」
 思わず声を荒らげてしまう。視線が物質なら突き刺してやりたいくらいに、きつくにらむ。
「当たり前だ。私が好きなのは兄さんだけ。他の男に興味はない」
「それならなんであんなこと!」
 目の下にクマを作りながらも、楽しげに笑っていたのに。その気持ちを踏みにじるなど許せない。
「そう言えばあきらめると思った。……でも、違うみたいだな」
「当たり前だし! トーリスは……お前のこと、本気で好きなんよ!」
 しん、と沈黙が流れた。ナターリヤは気味の悪い無表情のままなにも言わない。このまま問答を続ける気にならず、足音高く廊下を曲がった。
「うわ」
 曲がるなり人とぶつかる。「噂をすれば影」ということわざ通り、それはトーリスだった。何も知らない顔を見ていると腹が立ってくる。
「トーリスは、もっと女を見る目を養うべきだし!」
「いきなりなに? ちゃんとあるよ。だからナターシャちゃんのこと好きになったんだから」
 らちがあかないので、ほっぺをつかんでつねった。
「ト・ー・リ・ス・の・ボ・ケ・ナ・ス」
 一文字ごとに上下左右にひねる。手を離したときは頬が赤くなっていた。痛かったのか、瞳がうっすらうるんでいる。
「もー、一体なんなの」
「ナターリヤは、本当は、……」
 さっきの会話の内容を話して、正気を取り戻させたかった。だが、胸になにかがつっかえて、それ以上言えなくなる。
 消しゴムを拾ってもらったとか、目が合ったとか。ささいなことをとても幸せそうに話していた。誰もが経験する普遍的な初恋を、トーリスがとても神聖なもののように思っていることも知っている。
 だから、なおさら悔しい。少しは報われてもいいと思う。報われないのなら、幼なじみとして、不毛なことはやめさせたい。
「ナターシャちゃんが、どうかした?」
 名前を聞くだけで若草色の瞳が輝く。
 彼がなにを言ったところで、トーリスは恋を捨てたりしないだろう。絶望的な理解が、にぶく重く落ちる。
「……『頑張ってほしい』って、言ってたし」
 嘘は、ひどく苦い。


 席次表は夏祭りの前日に張り出された。
「……」
「……」
 人だかりの中、彼らは無言で掲示板を見上げる。視線は自然と一位に向かう。その名を確かめ、目を見交わす。タイミングを合わせずとも、その場を離れるのは同時だった。
 二人の足音だけが間をつないでいる。教室が見えたころに口火を切ったのは彼ではなかった。
「頑張ったんだけどなあ」
 声のトーンはやけに明るい。明るすぎてうさんくさいほどだ。表情は少しもそんな雰囲気がなく、異様さが際立つ。
「二十人抜きしただけでもすごいし」
 幼なじみの下手な芝居に調子を合わせる。そうすることは余計にみじめな気持ちにさせるとも知らずに。
「うん。我ながら、よくやったと思うよ」
 トーリスが自分を褒めるのは珍しいことだった。だが、こんなに苦しげな顔でなくてもいいのではないだろうか。
「……でも、やっぱり一位がよかったな」
 ちょうどクラスからナターリヤが出てくるところだった。こちらを見て立ち止まる。
「結果発表を見た」
 淡々として事務的な調子が、今はやけにやさしげだ。
「約束だ。一緒に行けない」
「うん」
 物分かりがよさそうにうなずく。だが、瞳に浮かぶ失望は隠されていない。
「ごめんね、俺の努力が足りなかったみたい。『頑張れ』って、言ってくれたのに」
 彼女は変な顔をした。セリフに身の覚えがないからだろう。彼の口からでまかせなのだから当然だ。
 だがそれを指摘することはなく、彼女は廊下を歩いていった。肩を落としたトーリスの背を、景気づけとばかりに叩く。
「落ちこむことないし! 俺が一緒に行ってやるし!」
「フェリクス……」
 少しだけ明るさを取り戻したかに見えた顔色は、次の言葉でまた変化を見せる。
「もちろんトーリスのおごりだから!」
「え? 普通、俺っておごられる立場じゃない?」
「だって今月は小遣いがピンチなんよー」
「無駄遣いするからでしょ」
 呆れながらも、トーリスは「仕方ないなあ」と苦笑した。
 それでいい、と内心でうなずく。つらいことなんて、別のことで頭をいっぱいにして、頭から弾き出してしまえばいい。


「あ、花火あがった」
「たーまやー!」
 ずらりと並ぶ屋台に目を奪われる。ソースやかき氷シロップのにおいが混ざり、縁日の雰囲気を盛り上げる。
 地元の祭だからか、知り合いに何人か会った。中には、中学や高校の進学で別れてしまった者もいる。楽しさと懐かしさがセットになって、なんだかお得だ。
 クラスメイトにも会った。カップルで来ているのは、一人身のやっかみもあって盛大に冷やかした。聞いた話によると、女子はグループで来ているらしい。
 おごらせたイカ焼きで口の周りを汚しながら、ぶらぶらとあてどもなく歩く。そうしていると、「あ」とつぶやいて、トーリスがいきなり立ち止まった。
「どないしたん?」
 答えはない。一点を凝視したまま動かない。視線の先をたどり、そのわけを知る。
 クラスメイトの女子の集団だった。色とりどりの浴衣を着て、楽しげに笑っている。ちょっと距離を置くようにして、一人が立っていた。
 浅葱色の布地に金魚が泳ぎ、桃色の帯が腰の細さを強調する。髪はゆるめにまとめられ、自由に流れた毛先が細い首筋にかかっている。
「な、ナターシャちゃん……」
 ぼんやりしていると、彼女たちはこちらに向かってやってきた。彼らに気づくと、やや気まずそうな顔をして横を通りすぎる。
 最後尾を行くナターリヤの前に思わず立ちはだかる。ギロリとにらみつけられても、たじろぐわけにはいかない。イカ焼きを飲みこみ、口の回りをぐいとぬぐう。
 上から下までながめる。帯と同色の鼻緒の下駄をはいていた。小さな爪が貝殻のように並ぶ。
「なんでここにおるん?」
「クラスメイトと夏祭りに参加したら悪いのか」
「悪くはないんやけど」
 彼女はそういった交流を好むようには見えなかった。クラスでも特定の誰かとつるんだりしない。いつも一人きりのイメージがある。
「っていうか浴衣」
「そう浴衣! スッゴい可愛いよ、ナターシャちゃん! もう最高! 写真撮って家宝にさせて!」
 ようやく我に返ったトーリスが鼻息荒く叫んだ。喜びのパラメーターが振り切れそうな勢いだ。
 いや、写真は無理だろうと内心でツッこんだそのとき、彼女はあっさりとうなずいた。
「まあ、いいだろう」
「本当!? じゃあ撮るよ!」
 呆然とする彼に気づかず、携帯を取り出す。手が震えてうまくカメラモードにできないようだ。ようやく構えたそのとき、さらなる爆弾発言が飛び出す。
「一緒に写らなくていいのか」
「いいの!?」
 声がひっくり返る。彼に携帯を押しつけ、ナターリヤの隣に並ぶ。翌日は顔面が筋肉痛になりそうなくらいの笑顔だ。
「なんでこんなことになっとるん……?」
 携帯を持ったまま少し悩み、ああそうか、と気づく。
 真夏は奇跡の季節なのだ。


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09/07/22