ひとひらの葉



※ギリシャの母親を捏造しています


 彼女のもたらしたときめきを、彼は今でも覚えている。
 大理石のように、白くすべらかな肌。絹糸のごとく風にそよぐ髪。落ち着いて凛とした横顔は大人の女性の魅力に満ちていた。
 一目惚れだった。
 赤い唇があでやかに笑むたび、月桂冠の葉が揺れるたび、瞳が彼を捉えるたび、心臓は痛いくらいに高鳴って、張り裂けそうになった。
 だがそんな気持ちを伝えるには、彼はあまりにも若かった。長く生きる彼女が彼などを歯牙にもかけないことは分かりきっていた。
 彼女に釣り合う男になれるように。彼の目標がそれになったのは当然のことだった。少しでも近づこうと躍起になって、日々戦いに明け暮れた。
 そうしてようやく彼が自信を得たとき――すでに彼女は亡く、残っていたのは、幼い彼女の息子だった。白い肌とくせのある髪が瓜二つの。
 絶望は、恋よりも激しく彼をさいなんだ。手に入れられそうなところで消えてしまったそのさまは、彼女が愛した神話に出てくる河神の娘を思わせた。
 恋心の奴隷となった太陽神を拒絶して月桂樹になった、高潔ながらも残酷な。

 彼女の忘れ形見は反抗的で、こまっしゃくれた言葉遊びを好んだ。一向に懐こうとせず、嫌悪を含んだ目で彼を見た。思いきり殴ってやりたい激情を堪えたのは一度二度ではない。
 あるとき、怒りに耐えかねて、お前は本当に母親の血を引いているのかと怒鳴ったことがある。
 いつもぼんやりとしている顔がさっと変わった。初めて見る激しさを全面に出し、だが不釣り合いにしぼり出す声で、当たり前だと言った。
 母の腕のやわらかさを、ひざのあたたかさを、歌声の涼やかさを、月桂冠のかんばしさを、切迫するような必死さで言い募った。
 滑稽だと思っていたのは最初だけだ。次第に、自分の知らない彼女の一面を知っている相手が憎たらしくなってきた。
 もしかしたら彼が手にしていたかもしれなかったそれらを、目の前の人物は当然のこととして持っている。自覚のない傲慢さに辛抱がならなくなった。
「母さんは、お前を愛さなかった」
 乾いた音が響く。
 気がつくと、頬を赤くした子どもがいた。見上げてくる瞳は、うんざりするほど彼女に似ていた。
 彼は唇を噛みしめ、その場を立ち去る。胸の内は空虚に満ちていた。

 子どもはやがて青年となり、彼女に恋をしたころの彼と同じくらいになった。背丈もそう変わらなくなった。
 そして、彼の家から独立した。
 別れの言葉はそらぞらしく、なんの意味もなかった。背を向け去っていく姿を最後まで見送らず、彼はさっさと家に入った。
 ふいに、絵を描きたくなった。書き損じた書類の裏に、使い古しの羽ペンを腕の赴くままに走らせた。
 完成したのは、女性の横顔だった。つんと鼻が高く月桂冠を頭に乗せた……それは彼女に他ならなかった。
 失ったものは二人とも同じだった。だからこそ、その痛みを分かち合うことはできない。今までも、これからも。
「今さら気づいても、しょうがねぇやぃ」
 つぶやいて、彼は紙を破り捨てる。
 どこからか舞いこんだ月桂樹の葉がひとひら、音もなく千切れた紙の上に落ちた。


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09/10/29