井戸の底
広く静かな部屋に、ペンの走る音が今にも消えそうに響く。
眼鏡の奥の瞳が文字を追う。最後の署名欄で一度考えこみ、やがて流麗な筆致でサインを施す。わきにある紙束の上に置くと、オーストリアは細い息を吐き出した。
机の前面にある大きな窓から差しこむ陽射しが、少しずつ赤みを帯びはじめていた。その光に照らされた顔は精悍(せいかん)ながらも険しい。
神聖ローマが出て行ってしまってから、一月近く経とうとしている。ただでさえ多かった厄介ごとは更に増え、彼の仕事もそれに比例した。
ほとんどすべての書類に「至急」の文字があってはその用を成さない。それを滑稽だと思えるほどの余裕はとうにない。身体はベッドのやわらかさを忘れかけていた。
行儀が悪いと思いながらも、左腕で頬杖をつく。まっすぐ座るよりは、いくぶん緊張がほぐれる。
楽になりすぎて、まぶたが重くなってきた。だが逆らう気力もなく、自然に身を任せた。
ほんの少し、白い眠りの時間が流れたように思った。
だが、小さな足音が彼の意識を揺さぶる。勢いよく顔をあげると、きゃ、とかすかな声。ハンガリーだ。
彼女は心底驚いた、という顔で彼を見ていた。白いエプロンが沈んだ色に見えるのは、日没が過ぎてしまったからだろう。
「なにをしているのです」
眼鏡を押し上げようとして、外されていることに気づいた。彼女がしたのだろうか。
伊達(だて)なので度は入っていないが、ないと落ち着かない。机の上に置かれていた眼鏡をかけ、もう一度同じ問いを繰り返す。
「なにをしようとしたのです」
「あ、あの」
「貴方を呼んだ覚えはありません」
驚きで丸くなっていた瞳が、すぐに翳(かげ)った。それは後ろめたさのせいだと、悪意を持って解釈する。
「私の寝首でも掻(か)くつもりだったのですか」
「そんなこと……っ!」
眉が八の字に寄せられた。瞳がなにかを訴えるように彼を見る。それがひどく疎ましく思えて、ますますいらついた。
「言い訳などするものではありません。見苦しい」
彼女が傷つくと知っていた。
だが、心にたまってこびりついた澱(おり)が自制を奪う。
「……申しわけございませんでした」
彼女はそう言ってすばやく身をひるがえした。乱雑にドアを開け閉めして部屋を出る。うるささが部屋に反響した。
蓄積したものは吐き出せたのに、いら立ちは強くなるばかりだ。自分の発したトゲが、彼自身をも突き刺す。
うたた寝で仕事が進んでいないことも拍車をかける。続きをしようにも、日が沈んだ今ではロウソクがなければ手元が見えない。
イタリアにロウソクを持って来るように命じようとイスを立ったとき、なにか柔らかいものを踏んだ。
拾い上げて確かめる。毛布だ。まだほんのりあたたかい。寝る前にはこんなものはなかった。
「……!」
ハッとする。ハンガリーはこれをかけてくれたのだ。それなのに、ひどいことを。
――彼女に詫びなくては。
広いばかりの屋敷はひっそりと静かだ。たった三人が住むにはあまりにも不釣り合いである。
なぜか、外にいる、という直感があった。理屈はよく分からないが、とにかく外に出る。
虫の鳴き声が夜を浮かび上がらせる。普段なら耳を澄ませていたのだろうが、今は後回しだ。
屋敷の裏手に回ると井戸がある。そこに近づいたとき、人の息づかいが聞こえてきた。ぎょっとしたが、ハンガリーのものだとすぐに気づく。
彼女はすすり泣いていた。その声が井戸に反響してくぐもる。まるで何人もの彼女がいるようだ。
近づこうとしたそのとき、彼女は底に向かって叫んだ。
「うわあぁああっ!」
獣が吠えるような音だった。意味を成さず、ただなにかを吐き出すためだけの叫びだ。幼いころに彼を殴ったあの力強さがよみがえり、その場から動けなくなる。
そう、彼女は強いのだ。きっと今でも。
「ぁああぁぁあぁあ!」
ひとしきりぶちまけると、息を引きつらせた。泣きながら、飽きずに叫ぶ。
「オーストリアさんの分からず屋!」
いきなり名前が出てきたこと、しかも罵倒であることにたじろぐ。だがこれでおしまいではなかった。
「どうして、どうして自分が一人なんて言うのよ!」
『私は一人きりになってしまったようです』、確かにそう言ったことがある。神聖ローマが屋敷を出ていって、状況が分からない様子だった彼女に。
そう言ったあと、彼女はどうしていた? ――「そうですか」とつぶやいて、目を伏せたのだ。
「私もいるのに! イタちゃんだって、スペインちゃんだって、みんなオーストリアさんのそばにいるのに!」
「……」
「なんで、なんで……っ」
もはや嗚咽まじりの声は先ほどの叫びに近づきつつあり、言葉として聞き取るのは難しい。
「私……力になりたい」
胸がつぶれるような心地がした。
いや、違う。
鎧(よろい)が砕けたのだ。誰も彼もを拒絶して突っぱねる気持ちが井戸の底に落ちて派手な水しぶきを上げる。
足音を立てないようにその場を立ち去り、部屋に戻る。彼女がかけてくれた毛布を胸に抱いた。
顔をうずめて深呼吸すれば、花や太陽の気配を感じる。
「私、は」
――私は一人ではなかったのですね。
いつか言ってみようか、彼女に。貴方がいてくれて嬉しい、と。
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「rodinia」の清水ヤスさんに捧げます。
ご希望は「洪からの矢印に気づく墺」
09/09/26