とある火曜日に



 いつものように電話をかけてフェリシアーナを起こし、いつものように彼女が出てくるのを待っていた。いつもと同じ朝が、また始まる。
 車内で火曜日の時間割を確認していると、窓を叩く音。視線を向けなくとも相手は想像がつく。そしてそれは当たっていた。
 窓を下ろすと、朝の空気が流れこんだ。爽やかでスッとする気配に満ちている。
「おはよ、ルーイ」
「おはようございます。では、今日の確認をいたします」
「うん」
 抵抗があった持ち物の確認も、今は習慣の一部だ。少しずつ忘れ物も減り、全くない日も増えてきている。喜ばしい進歩なのだが、どことなく淋しい感じがするのはなぜだろう。
 彼女が車に乗りこむ。陽気なのはいつものことだが、今日はいつにもまして機嫌がいいらしく、顔を運転席の彼に近づけてきた。
「今日がなんの日か知ってる?」
 今日の日付を頭に浮かべる。誕生日は三月に祝ったのだから違う。会社の創立記念日でもない。なんでもないただの平日だ。
 だが、なにかを期待する顔を前に「知りません」と言うのは気がひける。おそらく、彼女にとっては大事なことなのだろう。
「覚えて、ないの?」
 一気にしょげられて慌てた。その口ぶりからすると、彼にも関係があるようだ。
 なにか約束でもしていただろうか。……いや、していたらなら絶対に覚えている。日誌にもメモをしているはずだ。
 女に「今日はなんの日」と尋ねられたら、「君に『今日はなんの日』と尋ねられた記念日」と答えろ、という話が頭をよぎったが、それを実行に移せる彼ではない。
「もう……」
 彼女は唇をとがらせる。非難の視線をミラー越しに感じた。
「ねえ、お願いだから、絶対、絶対、今日中に思い出してね」
「はい」
 冷や汗が出そうになりながらうなずく。こうなってはヒントは期待できない。


 待機中に日誌を書いていても、朝のやりとりが気にかかってあまり集中できない。元々、複数のことを一度にこなせないタイプだ。
 なにか手がかりを求めて最近書いた分に目を通してみたが、それらしいものはなかった。まあ、書いていたならすぐに思い出していたはずだが。
 改めて見ると、日誌がずいぶん分厚くなっていた。ファイルのようにページを付け足していく形式なので、それはそのまま、彼女と過ごした時間を表している。
 最初は一週間だけのはずだった。それが、数ヵ月の断絶を挟みはしたが、また彼女を護衛することになり、そして、今日がある。
 今となっては、空白の時間が幻のようだ。二度と会えないとまで覚悟していたのが、滑稽にすら思える。あのときは真剣だったのだから余計にひどい。
 慣れている。彼女を護り、そして彼女が笑いかけてくれて、名を呼んでくれることに。
 もし、また、日々の生活から彼女をもぎ取られるようなことになったら……一体どうなるのか、考えたくもない。
 たった一週間でも、彼女の存在は彼の内側にきつく焼きつけられていたのだ。呆れるほど慣れ親しんだ今など、言うまでもない。
 彼女のなにがこんなに彼を惹きつけるのか、彼自身にもよく分からなかった。初対面のときは苦手だとすら思っていたのだ。
「……」
 日誌の一ページめを、ひらいてみた。
 最初の一文からいきなり、彼女の忘れ物で遅刻したことが書いてある。そういうこともあったな、と苦笑するしかない。
 なんとなく目を走らせ――ようやく、朝の問いかけの答えを知った。


「分かった?」
 放課後、顔を合わせて最初の一言がこれだ。もし分からないままだったら、かなり焦っていたのだろう。
「ええ。……たぶんこれだろうと思います」
 ドアを開けて、車に乗させる。運転席に座ると、すぐに期待いっぱいの顔で彼女が身を乗り出してきた。
「答え合わせ。言ってみて」
 かすかに照れくさいが、それでもしっかりと答えた。
「一年前の今日、初めてお嬢様にお会いしました」
 彼女はまばたきをした。そして、身体をふるわせ、いきなり彼の首に抱きつく。
「……大正解!」
 嬉しげに笑いながら、ぎゅうぎゅうと身体を寄せる。まだ発進していないからいいものを、運転中なら事故になること確実だ。
「思い出してくれたんだ。ありがとう!」
 「思い出した」というよりも「気づいた」という方が近いが、わざわざ言う必要はない。
 少しばかり申しわけなさと気まずさを感じながら、とりあえず早く離れてくれないものかと思った。……胸が当たっている。こればかりは未だに慣れない。おそらく、ずっとそのままだろう。
「あのころは、まさかこんなにずっと一緒にいられるなんて思ってなかったよ」
「私もです」
「ねえ、なにが一番記憶に残ってる?」
 強烈に覚えているのは、別れる夜、頬にされたキスのことだ。数珠つなぎに、痛めていたはずなのにやけに軽やかだった足取りや、言いかけて途切れたセリフ、らしくない表情が思い出される。
「最後の日、です」
「なんで?」
「別れ際に、お嬢様から、……」
 キスされましたから。なんのこだわりもなく言えるのなら、楽なのだが。
「ちゅーのこと?」
 彼女は至極あっさりと言う。なにかもやもやしながらうなずく。
「なぜあんなことをしたのですか」
「したいなって、思ったから。なんでそう思ったのかは分かんないけど」
 どう言えばいいのだろう。反応に困ってしまう。
「でも、してみたら恥ずかしくって、走って逃げちゃった。ごめんね」
 謝られると余計に困る。
「それは、かまいませんが。……足は大丈夫でしたか」
「平気だったよ。おんぶしてもらったおかげ」
 そういえばそうだった。キスのイメージがあまりに強く、その前後がぼやけてしまっている。まるで鼻の下が伸びっぱなしのオヤジのようで、こめかみをかいた。
「『またね』って言ったの、覚えてる?」
「はい」
 忘れるわけがない。会えないと分かっていながらも、ずっととどまり続けていた言葉だ。細く頼りないささやきは、今、こうして現実のものとなっている。そう考えると奇妙だ。
「ルーイ、これからも、よろしくね」
 一年経っても、彼女は変わらない。受験生になったというのに、相変わらずのんびりしていて、うっかりミスをやらかし、泣き虫で、スキンシップにもためらいがない。
 俺はどうだろう。ふと自身のことに思い至り、なにかハッとする感じがした。
 自分でも、間違いなく変わったと思う。だが、きっかけや時期がさっぱり分からない。毎日が少しずつ降り積もり、形を変えていく。
 一年は長い。今さらだが、そう実感した。そして、これからはもっともっと長い時間を彼女とともに過ごすのだろう。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 その想像は、めまいのような期待に縁取られていた。


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10/01/12