貴方みたいに
「ブルボン朝、第一共和制、共和制は総裁政府、統領政府で……」
ぶつぶつと暗唱する声が後部座席から聞こえてくる。ルームミラー越しに見れば、彼女はあんちょこ片手に暗記に励んでいるようだった。眉間にシワが寄っている。
学校が終わっても勉強から解放されない受験生は大変だろう。移動時間まで有効活用しているその努力は、大変立派だと思う。だが。
「酔いますよ」
声が止まった。どうしたのかと様子をうかがっていると、肩に手が乗る。
「ルーイ」
「はい」
「車止めて。……気分悪い」
やっぱり、と脱力しながら、近くにあった公園の駐車場に入る。蒼白な顔で気持ち悪そうにうなるので、自販機で飲み物を買った。
隣に座って、小さな背中をさすってやる。買ってきたお茶を飲みつつ、浅い呼吸を繰り返しているのがなんとも痛々しい。
幸いにも吐くほどではなかったようで、時間とともに顔色が落ち着いてきた。だがそのためにタイミングがつかめず、馬鹿の一つ覚えのように手を動かし続ける。少しでも楽にやりたいという気持ちはもちろんあるのだが、ばつが悪い。
「うー……ごめんね」
「いえ。大丈夫ですか」
「うん」とも「ううん」ともつかないあいまいな答えが返る。よく聞き取れるように顔を近づけて、どうにか言葉を拾う。
「手、止めていいよ。もう平気だから」
とてもそんな風には見えない。声が弱々しすぎる。言われた通りに手は止めたが、やはり気がかりだ。
「少し、ここで休んでいきますか」
こっくりと小さなうなずき。彼女は制服のリボンを外し、大きく深呼吸した。
「肩貸りるね」
肩に頭が乗る。閉じたまぶたの青い血管すら見えるほどの距離だ。まつげがかすかにふるえている。唇がやわらかな息をつむぐ。つるりとした鼻梁(びりょう)が美しく、目をそらすこともできない。
おかしな気持ちになる。
こうして当たり前のようにふれあうのに、彼らは恋人でも兄妹でもない。ただの「ボディーガードとお嬢様」だ。だが、彼らの間にある感情は、本当にその枠に収まっているだろうか。
もしかしたら、……もしかしたら。
――馬鹿馬鹿しい。
ルートヴィッヒは無理に思考の筋を断ち切った。長い時間を共に過ごせば、愛着じみたものが生まれる。それだけだ。彼はただ、近すぎる他人に困惑しているに過ぎない。
近づいてみたいと思うこともある。だが、あまりに近いとむしろ恐怖で、腕を突っぱって拒みたくもなる。そんなジレンマが絶えず繰り返されている。
だが、好きか嫌いかの二択ならば、確実に「好き」の部類に入るのだ。……困惑はいっそう深くなる。
そんな思いで見つめる彼を知ってか知らずか、鳶色の瞳がすっと開いた。まばたくたびに動くまつげがチョウのようだ。
「ご気分はいかがですか」
「ん、だいたいよくなった。肩、ありがとね」
離れていく頭を引き留めたく思うなど、どうかしている。
「今度からは、車の中での暗記はおやめください」
「分かってるよ」
彼女は唇をとがらせたが、すぐに不安そうな面持ちになった。
「だけど、本当にヤバイんだもん」
「お嬢様の行きたいところは、そんなに難しいのですか」
「一応、国立大だからね」
彼女が目指しているのは、四年制の国立大学の文学部だ。「本とか読むの好きだし」と、かなり単純な理由で決めたらしい。
「だけど、姉ちゃんはもっと難しいところだもん。私も頑張らなきゃ、姉ちゃんに怒られちゃう」
「……そう、ですか」
ロヴィーナは経済学部に行くそうだ。将来は会社を継ぐつもりでいるのだろう。フェリシアーナも、卒業後は祖父の会社に就職するつもりらしい。
「頑張んなきゃなぁ……」
らしくないため息が固形物なら、彼は迷わず車で轢(ひ)いていたことだろう。
「あまり力になれずに、すみません」
無力な自分が嫌になる。
結局、受験というのは本人の問題だ。家族でもなんでもなく、ただのボディーガードであるルートヴィッヒでは、なおさらできることは限られている。
思考がループしはじめ、うんざりした。堂々めぐりを繰り返してしまうこの頭をどうにかしたい。
「ううん、私、ルーイにはいっぱい助けられてるよ」
彼女の言葉で、一瞬、らせんが頭から消えた。人の心はずいぶんと単純にできている。
「そうでしょうか」
半信半疑で尋ねると、大きくうなずいた。
「私ね、ルーイみたいになりたいんだ」
「え」
ぽかんとしてしまう。変な顔、と笑われたが、仕方ないことだと思う。
「どういう意味ですか」
「ルーイって、一度も遅刻してないし、きっちりしてるし、記憶力いいし、やさしくて、マジメで……本当に、すごいから。だから私も、そんな風になれたらいいな、って」
褒め殺しである。むずむずする口を押さえた。彼女が顔をのぞきこんでくる。
「どうしたの?」
「からかうのはやめてください」
本気だよ、と怒った顔をするが、それならなおさらタチが悪い。目を合わせていられない。
ポニーテールがさらりと揺れる音がした。首をかしげたらしい。
「もしかして、照れてる?」
その通りだった。
直球な褒め言葉など数年ぶりだ。そのせいなのか、つい、顔がゆるんでしまうのだ。それに、恥ずかしい。変にいたたまれなくなる。
「顔、赤いよ」
「誰のせいですか」
手のひらの中でもごもごと言った。耳まで熱い。
「なんか可愛い」
無邪気な言葉が、さらに羞恥を煽る。
「やめてください」
「えー、なんでー? いいじゃん、別に」
ちっともよくない。まったくよくない。
あやうく写メを撮られそうになった。新しい一面が見られたと彼女は上機嫌だが、彼にしてみればそれどころではない。こんな自分など、あまり知りたくなかった。
「で、なんの話から脱線したんだっけ?」
いきなり話が戻る。脈絡のなさも、もはや慣れっこだ。……とは言え、少しばかり体力を削られるが。
「私が、お嬢様のお力になれているか、ということです」
「そうだったそうだった」
深々とうなずき、やっぱり頭いいね、と言うので、またペースを乱されそうになる。
「ルーイは、『こうなりたいな』って思ってる人だから、一緒にいるだけでも、すごく、……『頑張ろう』って気になるというか……、なにも言われなくても励まされてる気がするっていうか……、えっと」
ついに言葉が途切れた。あごに手を当て、首をかしげ、うーん、とうなり、彼に目を向ける。
「……分かる?」
「なんとなく、は」
とにかく、彼の懸念が杞憂で終わったらしいことは把握した。非常にあいまいでつかみどころのないものではあるが。
「逆に、私はルーイの力になれてる?」
予想外の質問に、一瞬、頭が空っぽになった。
「どう?」
わくわくキラキラした目だ。……裏切れない。
頭が高速で回っている。浮かぶのは他愛のないことばかりで、口に出すのを尻ごみしてしまう。どうせなら、喜ばせられるくらいの大きなことであればいいのに。
「それは……」
「『それは』?」
楽しそうに反復する。ますます言葉が喉に引っかかってしまう。嘘をつこうかとも思ったが、そんな余裕すらない。
一つ、咳払いをした。またぞろ耳が熱くなる。
「私は、お嬢様の笑顔を見ると、……その、力が、出ます……」
語尾が弱った。恥ずかしさのせいだ。とても真顔ではいられない。穴があったら入りたいくらいだ。
「なんで?」
彼女は無邪気に追い討ちをかける。勘弁してくれという気持ちと、やけっぱちな気持ちがぶつかり、僅差で後者が勝った。
「とても、綺麗なので」
はっと我に返る。今俺はなにを口走った。
「そ、それに、お嬢様の笑顔を守るのが、俺の、いえ、私の、しぎょ、仕事ですから!」
パニックにも近い状態で、わたわたと付け足した。どもるわ一人称がごっちゃになるわ噛むわで、みっともないことこの上ない。
ぽかんとしていた顔が、くしゃっと笑みを浮かべる。
「ルーイ大好きー!」
「だから、からかうのはやめてくださいと言ったでしょう!」
立場を忘れ、恥ずかしさをごまかすために怒鳴ってみても、彼女はずっと笑い続けていた。最後には、彼もやけっぱちで笑った。
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10/01/28