厄介のかたまり
ルートヴィッヒの朝は早い。
五時半には目を覚まし、六時には家を出る。真冬ならば夜が明けていないこともザラだ。そして一時間以上かけて出社する。
出社してタイムカードを押したり日誌を取ったりしたあとは、すぐに車でフェリシアーナの(そして社長の)家まで向かうのが常……なのだが。
「ちょっと待て」
車の鍵を握って駐車場に向かおうとした彼を、フランシスが呼び止めた。ちなみにフランシスの今の仕事はデパートの警備員だ。
「今日はお前、社で書類業務だ」
くい、と親指でデスクを示しながら言うが、そんな話は聞いていない。それに、もしそうなら、彼女の護衛はどうなるのだ。
「今日はついていなくていいのですか」
「ああ。フェリシアーナの奴、熱を出して学校を休むんだとさ」
熱を出した? あの彼女が? 信じられない気持ちでまばたきした。
兆候があっただろうかと、昨日の様子を思い返す。初雪が降ったとはしゃいでいた。コートも着けずに。……それが原因だろう。
いやもしかしたら、ただの熱ではなく、インフルエンザなどの病気の前触れかもしれない。ニュースがしきりに報道するパンデミックが頭をよぎる。
そうでなくても、彼女は高三で受験生だ。センター試験も間近な今の時期、一日の価値は重い。熱のせいでライバルに出遅れてしまうかもしれない。
悪い事態ばかりが浮かぶ。軽く血の気が引きはじめた。すると、フランシスが肩を叩く。
「フェリシアーナのことだから、明日にはケロッとした顔してるよ。心配すんな」
そう言われても、まったく安心できない。普段は風邪をひかない人間ほど、いざ病気にかかると重くなるものだ。
「それに家政婦がいるから、万が一のときは救急車を呼ぶだろ」
「そう、ですね」
納得できないものがわだかまっていたが、うなずいた。デスクにつくと、別の不安が生まれた。
――彼女が熱を出したのは、俺のせいかもしれない。
雪で濡れた髪をおざなりに拭いていなかっただろうか。スーツのジャケットをかけただけでは寒かったはずだ。ホットコーヒーをもっとたくさん飲ませればよかった。
考えれば考えるほど、原因は彼自身にあるように思えてきた。自責は心配と相まって、胸の中で黒くとぐろを巻く。
熱で苦しんでいないだろうか。家政婦はちゃんと容体の変化に気づくだろうか。
書類業務に集中できない彼のデスクの上で、車の鍵はぴかぴかと光っている。
五時に会社を上がったとき、彼はもう決めていた。
タクシーを拾い、住所を告げる。他人が運転する車に乗るのは久しぶりだ。ぼんやりと運転手の後頭部を見る。
彼女も、こんな風に彼を見ているのだろうか。どんな気持ちで、なにを思って。……それに応えたいのに。
一度寄り道したあと、タクシーは目的地に到着した。門扉の前に立ち、一度深呼吸してインターフォンを鳴らした。
「……」
反応がない。もう一度押してみたが、同じだった。壊れているのだろうか。
門扉は家の内側から操作しないと開かない仕組みだ。無理に入ろうとすれば防犯ブザーが鳴って警備員がやって来る。さすが警備会社の社長の家、と言うべきか。
どうすることもできず、ため息をついた。帰ろう、ときびすを返したそのとき、インターフォンから音がした。
『誰?』
慌てて向き直る。緊張しながら話した。
「ルートヴィッヒです」
『ルーイ! ちょっと待ってて、すぐ開けるから』
言葉通り、門扉が自動的に開きはじめる。同時に玄関のドアも開き、誰かが現れた。
「来てくれたんだ!」
パジャマの上にフリースを着てサンダルを履いたその人物は、まさしく彼の依頼人――フェリシアーナだ。一直線にやって来たかと思えば、思い切り抱きついた。伝わる体温が、ほんの少し高い。
一瞬ぼんやりしてしまったが、はっと我に返る。
「安静にしてください」
「大丈夫だよ、平気平気」
「ダメです」
肩を押して家に入る。心配しすぎ、とぼやいていた彼女は、彼の持っている小箱に目を留めた。
「それ、なに?」
「これは、その……ケーキです」
向かう途中で手ぶらはマズイことに気づき、買ったのだ。女性ばかりの店内で長々と品定めする度胸はなく、適当に選んだ。
社長の家に行くことは冷静に決めたつもりだったが、思いの外、分別を失っていたらしい。
「ケーキ」と聞いて、彼女は目を輝かせる。頬がいつもより赤いな、と思った。
「私の? 食べていいの?」
「はい」
「ありがとう! じゃあお茶入れるね!」
キッチンへ向かおうとする彼女を引き留め、慌てて言う。
「結構です」
家政婦に頼もう、とあたりを見回したが、それらしい姿はない。
「家政婦はどこですか」
「帰ったよ。いるのは四時までだもん」
だから彼女が出てきたのか、と納得したが、病人を置いていくなど無責任だ、と非難したくなった。仕事なのだから仕方ないことは分かっているのだが。
「今までどうしていたのですか」
「寝てた。なんか喉渇いたなーと思って下りて、階段を上ってたらインターフォンが鳴るんだもん、びっくりしちゃった」
反応が遅かったのはそのせいだったようだ。タイミングがいいのか、悪いのか。
「まあそういうわけで、家政婦さんはいないから、私がお茶用意しようか?」
「私がやりますから、お嬢様はゆっくりお休みになっていてください」
「えー。寝てばっかりでつまんない」
「またぶり返しますよ」
「そんなこと、……っと」
言った矢先から立ちくらみを起こしたのか、彼女はふらついた。ひたいにふれてみれば、結構熱い。
「だから言ったんです」
「もう寝飽きてるのにー……」
ケーキは冷蔵庫で冷やすことにして、彼女の部屋に向かった。出会ってから一年以上経つが、入るのは初めてだ。
「適当に座って」
第一印象は、「女性の部屋だな」だった。
フレームに入った写真、ぬいぐるみ、花柄の布をかけられた電子ピアノ、そういった小物が少女らしい雰囲気に一役買っている。
意識するとほのかに甘い香りを感じる。彼女がいつもまとっているのと同じものだ。気づいてしまうと落ち着かない。
彼女はごねた割に大人しくベッドに入った。勉強机の椅子に座った彼をじっと見つめる。
「……なんですか」
視線が気になる。元から落ち着かない気分が、ますます居場所をなくすようだ。
「本当にルーイが来てくれて夢みたいだな、って」
こっち来て、と彼女は手招きする。キャスター付きの椅子に座ったまま移動した。
「今はそうでもないけど、朝はスッゴいツラかったんだ」
原因はお前だと責める気持ちがうごめいた。なにも言えなくなる。そんな資格はない、蔑みの言葉が低く響いた。
「熱も高かったし、頭もガンガンして。……それでね」
彼女は彼を見上げた。瞳は純真で、くもりもない。
「ルーイにすごく会いたかった」
殴られたように、思考の糸が切れた。急いでつなぎ直して、信じられない気持ちでつぶやく。
「私に、ですか?」
「うん」
大きくうなずいて、はにかむように笑う。
「なんでか分かんないけど、浮かぶのはルーイのことばっかりで。……だから、会えて嬉しい」
布団の中から手が伸びて、彼の手をつかんだ。手のひらが熱い。小さく華奢な手がこんなに熱を持つのが不思議に思える。
「会えた証拠に、手、つないでて」
胸がいっぱいになる。混じりけのない信頼がありありと伝わってくる。はい、とやっとの思いでうなずいた。
応えられているだろうか。少しだけでも、彼女の安らぎに貢献できているだろうか。
……こんなにも、か細い手。
わずかに手に力をこめると、彼女は不思議そうに首をかしげる。
「どうしたの?」
なんでもない、と首を振ると、戸惑っているらしい様子を感じた。だが、ぎゅっと握り返される。
「ねえ、ルーイも会いたいって思ってくれたんだよね? だから、来たんでしょう?」
「それは」
黒いとぐろが、動いた。先端がもそりと起き上がって、それはヘビだと明らかになる。ウロコの跡を残すように、いっそうきつく巻きつく。
「……お嬢様が熱を出した原因は、自分だと思ったからです」
「違うよ! 熱が出たのは、自業自得だもん」
彼女がそう言うだろうとは、想像がついていた。そう言わせたくて来たんだろう、とヘビが赤い舌をうねらせる。
自己満足のために、彼女の気遣いを狡猾に利用している。こんなに信頼してくれている彼女を。
「すみません」
謝るのすら自分のためのようで、そんな身勝手さに辟易する。
「違うってば! 私が熱を出したのは、夜遅くまでベランダで雪を見てたからだよ!」
「……はい?」
その言葉は予想外すぎた。
彼女はベッドからもそもそと起き上がり、もう片方の手も握る。もどかしさをぶつけるように腕を引いたり揺すったりしながら、切々と訴える。
「お風呂に入って、髪の毛が濡れたまま部屋に戻って、外を見たら、また雪だったんだ」
確かに、昨日は昼だけでなく夜も雪が降った。ちょうど帰宅の途中で、ツイてないと思ったので覚えている。
「ベランダに出て、ずっと見てたらかなり時間が経っちゃってて。寒いなーって思ってたら、……熱が出ちゃった」
最後は居心地悪そうに彼女はつけ足した。
「だから、ね、ルーイが悪いんじゃないよ」
「……」
ヘビが身体をくねらせながらどこかに行ってしまう。拘束から解放された心臓がうろうろとさまよう。
「なぜそんなことをしたのです」
しょうもない原因を知ってしまうと、心配が怒りに変わってきた。「雪が綺麗だったから」と悪びれもなく言われて、噴火する。
「綺麗? そんなもの、あたたかくした室内でいくらでも見れるでしょう」
さすがの彼女でも彼が怒っていることに気づいたようだ。だが、すねたように反論する。
「外で直接見た方がもっといいもん」
「それよりもっと優先するものがあるはずです。せめて髪を拭くとか、厚いコートを着るとか、そんなことも分からないのですか」
手に力がこもる。彼女はかすかに顔をしかめたが、怒り心頭の彼は気づかない。
「私がどれほど心配したと思っているんです。お嬢様にもしものことがあったらと、気が気ではありませんでした」
「……うん」
「まったくお嬢様は、本当に、……」
感情が空回って、続ける言葉が見つからない。がっくりとうなだれ、ため息をつく。
「ごめんね」
しゅんとする彼女を見ていると、むしろ言い足りないくらいなのに、ちょっと言いすぎたかもしれないと思ってしまう。こっちが悪者になった気分だ。
「……次は気をつけてください。受験生でもあることですし」
「うん」
もう一度ごめんね、と繰り返し、彼女は布団にもぐった。眠くなってきたのか、あくびをする。
「また起きるまで、手を握ってて」
「……分かりました」
「それで、ケーキ食べようね」
食欲があるなら大丈夫だろう。熱はあるものの、いつもの調子だ。安堵の笑みが唇にうっすらとのぼる。
「はい」
「絶対だよ」
まぶたを閉じたほんの数秒後にはもう、彼女は寝息を立てていた。つないだままの手が冷えないように手の甲を包もうとして、赤くなっているのに気づく。怒りにまかせて握りしめたせいだ。
頭が冷えると、どうしてあんなに腹が立ったのか分からなくなる。冷静沈着な彼にとって、感情をむき出しにすることは恥ずべきことだ。ましてや相手は依頼人で年下の少女である。
……痛かっただろう、と赤い箇所をさする。それなのに、じっと耐えて、糾弾を受けとめて。すべらかな肌の感触が恐ろしい。
認めざるを得ない。彼女の前では普段通りでいられない自分がいる。その現象の名が分からずに、みっともなくもがいている。出会ったときから現在に至るまでずっと。
まったくもって、厄介だ。
そう内心で毒づいて、赤みの引いた手を包み直した。
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10/01/01 初出(年賀状企画)
10/02/18 再録