ハッピーエンドのまやかし
「お前の家は?」
波にくるぶしを洗わせながら男は問う。水色の両目には、隠しきれない好奇心が輝いている。
「俺のことはみんな話した。次はお前の番だ」
「……私の」
尋ねられた女は、かすかに首をかたむけた。流れる髪を耳にかけ、桔梗色の瞳を細める。視線を向けた先は男ではなく、はるかに広がる海だった。
潮風が二人の間を抜けていく。
「私の家は、海」
「え?」
男は大げさなくらいに目を丸くする。
「じゃあお前、……人魚?」
「そうだと言ったら?」
彼女はようやく彼に振り返り、妖艶に笑って見せた。
「信じる?」
彼は少しだけ呆気に取られていた。だが、彼女の瞳をじっと見返し、答える。
「信じる」
「……ジョークも分かんない男は願い下げ」
一方、彼女は興ざめした様子で、そっけなく目をそらし、また海を見つめるのだった。
「はい、カーット!」
その一言は残酷なほどに、異質な空気を壊した。さっきまではつかめそうだとすら思っていた雰囲気が、今は綺麗に消えている。
先ほどのやり取りは制作中の映画のワンシーンだ。彼女がいるのは映画鑑賞サークルだが、今夏は映画の自主制作をしている。
持っていた反射板を下ろし、腕を回す。さすがにずっと上げっぱなしはキツい。これでタダ働きで、おまけに機材を運搬する車の運転手も務めているのだ。我ながらよくやるな、とルートヴィッヒは思った。
サークルメンバーでもない彼が映画撮影を手伝っているのは、他でもない、フェリシアーナのためである。人手不足なので駆り出されたのだ。
都合よく使われていると思わなくもないが、彼女のためだ。そう思えば苦でもなくなる。だが、そのことを意識することは苦痛だった。
彼女は特別。きっとそれは、感情の動きとしては正しい。だが、自分の役割を重ねると、黒に近いグレーゾーンになってしまう。
さらに先をのぞきこめばとてつもない深淵がありそうで、無理やり思考を止めた。
「俺、いい演技だったっぺ? な?」
会話が聞こえてきた方に視線を向けて、気をそらす。
映画の主役二人だ。カメラが回っているときはちゃんとした標準語だったが、今は訛り丸出しである。男はニコニコと笑いながら、岩に座りこんでいる女に問う。彼女はきつい眼差しで彼をにらんだ。
「やかまし」
「そーけ!」
なぜそこで嬉しそうな顔ができるのか分からない。
この二人はいつもこの調子だが、それでも演技は抜群にうまい。撮影だということを忘れて見入ることも多かった。
「オッケー、このシーンはこれで完成だよ!」
映像をチェックしてから二人にそう言ったのは、この映画の監督、そして……以前一緒に遊園地へ行っていた、フェリシアーナの「恋人」、アルフレッドである。
メガホン片手にあれこれと指示を出す姿は様になっているし、流し読んだだけのシナリオでもなかなかの才能を感じた。それなのに、なぜか受け入れられそうになかった。
焦げつく感情が胸の内を巡る。彼女が自分の意思で「恋人」に選んだ相手だ。それを諾々と受け入れるのも仕事ではないのか。
なにかが理解の形で手のひらに落ちてきそうになって、それを知らぬふりで見過ごしている。
なにも分かりたくない。知りたくない。突っぱねれば突っぱねるほど、伸びては切れる思考の筋が首を絞めていく。
「お腹も空いたし、ここで休憩にするぞ! 一時間後にまた集合!」
ふう、と息をつき、とりあえず反射板を車に片付けることにした。ついでに潮風で傷んでしまいそうな今は使わない機材も、ひとまず収納することにする。
いざ積もうとして、ふさがった両手では荷台を開けられないことに気づいた。だが一時的に置いておけるようなスペースもなく、途方にくれる。
「どうしたの?」
背後からの声にぎくりとする。すぐに誰か分かってしまった。予想通り、彼の隣に回ってきた人物は、フェリシアーナだ。
「あっ、もしかして、開けられないとか?」
「ええ」
みっともないところを見られてしまった。思わず眉が寄る。
「じゃあ私が開けるよ。鍵はー?」
「右のポケットです」
「分かったー」
だが彼女が手をつっこんだのは左である。「ないよー?」とポケットの中で手が動く。
「そちらではありません。お嬢様から見て左にあたる右です」
「え?」
彼女はきょとんとした。「あっ」とつぶやくと、いきなり笑う。
「そっか、そうだよねー。間違えちゃった」
今度は正しい方に手を入れ、鍵を取り出す。荷台を開けると、彼女はしまうのを手伝うと言ったが断った。機材はデリケートである上に重い。
しまい終えるまで彼女はその場を離れなかった。視線を感じて、顔が熱くなる。
「なにか用ですか」
「一緒にご飯食べようよー」
「私と、ですか」
わざわざ彼でなくても、他にいるはずだ。「恋人」でも、他の出演者でも、いくらでも。そう思ったのが伝わったのか、彼女はしょんぼりとした顔をする。
「今日はルーイとがいい」
「今日は」とは言うが、このやりとりは昨日も一昨日も繰り返したものだった。そして、答えはいつも同じ。
「申し訳ないですが、サークルの方とどうぞ」
メンバーは砂浜に敷いたシートに集まっている。とても楽しそうに見えた。彼女のいるべきは彼のそばではなく、あそこだ。そう言うと、彼女はうつむいてしまう。自分でも分かっているのだろう。
それに、と内心で付け足す。
あまり彼女の近くにいたくなかった。声を聞くたび、笑顔を見るたび、手がふれるたび、なにかがゆがんでいく。食い止めることはできないとうすうす気づいていたが、抵抗せずにはいられない。
「じゃ、じゃあ、ルーイも一緒に来て」
口に出してから彼女は顔を輝かせた。逃がすまいとするように服のはしをつかむ。
「ルーイだって一緒に映画作ってるんだから、ね」
「いえ、私は」
確かに協力はしているが、彼は元々部外者だ。仲のよさそうなサークルの輪に入っていっても、居場所を見つけられず、いたたまれない気持ちになることは容易に想像がついた。
「私がいてもお邪魔でしょう」
「そんなことないよー。みんな、ルーイがどんな人なのか興味津々だもん!」
言っていることが嘘か真実かはともかく、どうしても来てほしいと思っているのは伝わってきた。
なぜそこまでこだわるのだろう。戸惑っていると、追打ちをかけられる。
「お願い……」
泣く寸前のうるんだ瞳が彼を見上げる。うぐ、と息を呑んで、肩を落とした。
「分かりました」
どこまでも彼女に甘い自分が嫌になる。自分の心の平穏すら自分で守れないなど、滑稽だ。
「本当? ありがとうルーイ、大好き!」
抱きつかれる。さすがにこれは無理だ。慌てて引きはがせば、さびしそうな顔をされる。
心が痛むが、気軽に抱きつくのをやめてほしいのは本当なので、取りつくろう余地もない。
「行きましょう」
ごまかす気配を隠せないまま、どうにか言うと、彼女は素直にうなずいた。だが、瞳は暗い。
予想とは裏腹に、サークルのメンバーは彼をあっさり受け入れた。手伝う彼の顔を知っていたこともあるだろうが、一番の理由は若さだろうと思った。
柔軟性があるのだ、彼らは。社会に揉まれている内にルートヴィッヒが失ってしまった、やわらかくしなう心をまだ持っている。
そんなことを考えて、ふと、彼女との年齢差を計算してしまった。……しなければよかったと、後悔した。
二十歳にもならない彼女と、三十路も遠くない彼と。差を意識すれば、対極にある存在に感じられた。
「そういえば、最初はフェリシアーナさんがヒロイン役だったって、本当ですか?」
初耳だ。音響係の少女に目を向ける。この少女は彼女と同じ高校で、監督のアルフレッドとは従姉らしい。
名はウィリアムズだった……と思う。ゆかりは深いはずなのだが、いまいち記憶に残らない少女だ。
「うん、そうだよー」
彼女はこだわりなく肯定し、サンドイッチにかじりついた。
「なんでやめたんですか?」
「先輩の方が適役だったし、衣装係も楽しそうだったし、……それに」
珍しく言いよどむしぐさを見せる。どうしたのだろうと思っていると、アルフレッドが割りこんだ。
「キスシーンは嫌なんだってさ!」
脳裏によみがえったのは、遊園地で見たシルエットだった。彼女がこちらの様子をうかがっていると思うのは、きっと気のせいだ。
演技であってもキスを拒むのは、「恋人」がいるからに決まっている。しかもそれは監督で、そのシーンをまじまじと見られるのだから、かなり抵抗があるだろう。
「ボディーガード」に過ぎない彼に気兼ねする必要や理由はどこにもない。心の中でつぶやく。なにもかも自分に都合よく解釈するのは愚者の所業(しょぎょう)だ。
「おかげで俺がこいつにキスできるっぺよ!」
ヒーロー役が隣に座っていたヒロイン役の肩を抱けば、盛大に顔をしかめられる。
「演技だべ」
「じゃあ本当にぶちゅっとするけ?」
「死ね」
ものすごい音を立てて、肩に回していた手が叩かれる。涙目になりながらも「照れ屋だっぺなー」と言うその根性はすごいと言わざるを得ない。
そうしている内に休憩時間は終わり、また撮影がはじまった。
会うと気持ちがもやもやするので、できることなら彼女の「恋人」には近づきたくない、というのが本音だ。しかし、雑用をこなすためには監督の指示が必要になることが多い。
機材のセッティング位置について確認しようと近づいて行くと、アルフレッドは携帯で誰かと通話中だった。緊急性はないが、電話が切れるまで待つことにする。
「そのことなら君にも言っただろう? ジェニファー」
盗み聞きする気はなかったのだが、気をそらすものがない上、やたら大きな声なので、いやでも話しているのが聞こえてしまう。不可抗力だ。
「うん、うん、そうそう」
やはり後回しにしよう。考え直して立ち去ろうとしたとき、通話相手に向けたのであろう声が聞こえた。
「当たり前じゃないか! 君のこと、世界一愛してるんだぞ!」
耳を疑った。彼女の「恋人」が、他の女に甘い言葉をささやいている。
二股。浮気。そんな言葉が頭に浮かび、気がつくと肩をつかんでいた。振り返ったアルフレッドは、彼の顔を見るなりぎょっとする。
「な、なんでそんな顔してるんだい! 怖すぎるよ!」
「黙れ。俺の質問に、真面目に答えろ」
ドスの効いた低い声を出すのは得意だ。どうやら通用したらしく、ガクガクとうなずかれた。
「お前は、お嬢様と付き合っているんだろう」
初めての「恋人」だと言ったときの、嬉しそうで照れたような笑みがよみがえる。それが悲しみに染まる。想像だけで、心臓がしぼられるように痛んだ。
「今の電話はなんだ。答えによってはただで済むと思うな」
握りこぶしをちらつかせ、肩をつかむ手に力をこめる。
「も、もしかして、知らないのかい?」
「なんのことだ」
「俺たちは、とっくに別れてるよ」
そんな話は聞いていない。彼女からはなにも言われなかった。
だが思い返してみれば、あれ以降のデートはなかったし、「恋人」のことが話題にのぼることもなかった。まるで、なにもなかったかのように。
「どうして」
頭を殴られた衝撃の中、ぽつりとつぶやくと、アルフレッドは肩をすくめる。
「彼女、本当は、他に好きな人がいたらしいんだ」
さらに頭がぐらぐらする。話の尻尾をつかみ損ねて、どこへ進んでいくのか検討もつかない。
「俺といるときも上の空で、そいつのことばっかり考えてたみたいだ」
ならばきっと、彼といるときも、彼女はその男のことを考えているのだろう。
急に、ひどいいらだちを覚えた。どれほどそばにいても、人の気持ちを見ることはできないし、自分に都合よく操ることもできない。当然のことが、はがゆくてたまらなくなる。
「とりあえず、手をどけてもらえないかな」
「あ、ああ、すまない」
首を振って思考を弾いた。君って馬鹿力だね、と言いながら肩を回すアルフレッドが、やけに身近な存在に見えた。さっきまではできることなら近づきたくないとさえ思っていたのに。
「そういえば君、彼女には『ルーイ』って呼ばれてるんだっけ?」
うなずくと、「ふーん」と言いながら上から下までじろじろとながめ回された。勘違いで手荒なことをした手前なので、腹が立つよりも居心地が悪い。
「そういうことか」
一人で納得して、うなずかれる。意味が分からずにいると、気安く肩を叩かれた。
「なにはともあれ、手伝いをよろしく」
撮影が進むに連れ、物語は佳境に入る。
ある日女は言う。「もう会いたくない」と。一方的な宣告に男は戸惑い、彼女の気持ちが分からず、会えないまま時間ばかりが過ぎていく。
だがその矢先、大型の強力な台風が直撃することを知る。
彼が思ったのは、海と共にある彼女のことだけだった。荒れ狂う天気の中、危険も省みず、いつもの場所へと向かう。
「来ると思った」
女はどしゃ降りの空よりも憂(うれ)いを帯びた目で男を見る。彼女を安全な場所へ連れて行こうとする腕を拒んで、首を振る。
「ここにいる」
「馬鹿を言うな、ここは危険だ! 波にのまれたらひとたまりもない!」
「そんなのありえない。私は……人間じゃない」
その告白に、男は目を見開く。
「ルーイ」
いきなり声をかけられ、びくりとしてしまう。自分で思うよりも物語に集中していたらしい。
「風邪ひいちゃうよ」
彼女は持っている傘を彼にかざしていた。かなり無理な背伸びをしているようで、足元がふらふらしている。今にも倒れそうだと思っていると、案の定、身体がぐらりと傾ぐ。
「っ!」
慌てて腰を引き寄せる。開いたままの傘が足元に落ちた。叩きつける雨からかばうように、腕の中に小柄な身体を収める。
「……」
彼女の身体が呼吸に合わせてふくらんだりしぼんだりするのまで分かる。きっと、彼女にも同じように伝わっているのだろう。
心臓がばくばくと弾んでいる。息が苦しい。それなのに、このままでいたいとも思った。
彼女を抱きしめたこの形が、とても自然で正しいもののように思える。最初からこう決まっていたかのような、……錯覚。
「ぅあ、っす、すみません」
動揺しながら腕を離す。だが彼女はまだ胸元にすがりついたままだ。雨に濡れても身じろぎしない。
「おじょ――」
「ルーイ」
眠りに落ちるまぎわにも似た、どこかおぼつかない口調。不安になるほど弱々しいのに、口を挟めない。
「私のこときらい?」
「……いいえ」
そうではないから困っているのだ。
彼女が頭を寄せている正にその場所で、「ボディーガード」には不釣り合いな感情がふくれてゆく。殺すことも無視をすることも閉じこめることもできないほどに。
「なら、もう一度、抱きしめてよ」
だが、生かすことも見つめることも解放することもできない。彼の立場が許さない。そして、彼の理性も。
「できません」
分かりはじめた断片を、拒絶した。
「このままでは風邪をひきますから」
身体を引きはがし、傘を拾う。もの言いたげな瞳には気づかないふりをした。
映画の方に目を向けると、抱き合った二人がゆっくりと唇を重ねるところだった。
ハッピーエンドの集大成であるはずのそのシーンは、なぜか、むなしかった。
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10/03/20