ビター、ビター、スイート
「そろそろ、いいですか」
もう充分に待った、と言外にほのめかす。予想通り、フェリシアーナはあせりの表情を浮かべた。
「ちょ、ちょっと待って! まだ心の準備が」
「三度めですよ。いつになったら決心がつくのですか」
「だって、怖いよ」
「誘ったのはお嬢様ではありませんか」
ルートヴィッヒのため息は白い塊となり、風に流される。
「てっきり、経験があるものだとばかり思っていました」
「ううん、初めて。一度もしたことない。あれ、言ってなかった?」
「……聞いた記憶はありません」
もうちょっと早めに伝えておいてほしかった。できれば「やりたい」と言い出した時点で。
だが、過ぎてしまったことはしょうがない。ここまで来てしまった以上、当初の目的は果たすべきだろう。
「怖いのでしたら、私にしっかりつかまっていてください」
「うん」
疑ったり不安がったりする様子を見せるどころか、むしろ安心したように表情をゆるめて、彼女は彼の腕をつかんだ。
何百回「信頼している」と言われるよりも雄弁な態度に、少し、戸惑う。それをはるかにしのぐ歓喜は、なんとか表情筋から遠ざけた。
「ゆっくりね」
「はい」
そうしてようやく、彼らはスケートリンクにエッジの跡をつけたのだった。
二月半ば、屋外リンクは場外よりもいっそう厳しい冷気に満ちている。その中で突っ立っていたせいか、身体が強ばってしまったような気がした。
彼女が命綱のようにしがみついていた手すりがじわじわと遠ざかる。小走りの方がまだ速いくらいだが、いきなりスピードを出して怖がらせたくない。
隣を小学生の集団がさっと通りすぎた。抜かれたあとで笑われた気がしたが、気のせいだと思うことにする。そういうことにしておきたい。
「とにかく、腰はかがめずに、しゃんと立ってください。でないとバランスが崩れて転びます」
「う、うん」
背中を丸めていた彼女は、はっとしたように背中を伸ばした。
「足は『V』の字で。直角にひらいてください」
「わかった」
彼女はのんびりした性格だが、けして運動神経がないわけではない。むしろ俊敏なところもある。だから、コツさえつかめば上達は早いだろうと思っていた。
その予想は当たっていたようで、数十分後には手を引く彼に合わせて滑ることができるようになった。一人では生まれたての小鹿状態になってしまうが、手すりにへばりついていた最初に比べれば上出来だ。
「慣れたら楽しいー!」
声や表情からも恐れはすっかり消えている。だが、鼻の頭と頬が真っ赤なのが気がかりだ。着こんでいるが、体温を奪われないわけではない。
「寒いでしょう。温かいものを飲んで休憩してください」
「ん、そうする」
料金所とロッカーを兼ねた屋内の休憩室は、スケート靴をはいたまま入ることができるようになっている。席取りは彼女に頼み、彼は自販機に向かった。
自分にはコーヒーを選び、ちょっと悩んで、もう一つはココアにした。彼女の向かいの席につき、缶を渡す。
「ありがと」
「いえ。ココアでよかったですか」
「うん。ルーイはなんにしたの?」
「コーヒーです」
ちなみにブラックだ。見ただけで苦そうな顔をされてしまった。
「まあいいや。ねえ、せっかくだし、乾杯しようよ!」
「……なににですか」
「初スケートに!」
当然だ、と言わんばかりの表情である。いくつか指摘したいことはあったが、すげなく断るようなものではない。促されるまま、缶をぶつけた。
「かんぱーい!」「乾杯」
ココアを飲み、彼女はへにょんと笑った。
「甘くてあったかくて、幸せ」
思わず目を細める。選択が外れていなかったことはもちろんだが、彼女が幸せそうにしていてくれることが、なによりもうれしい。
「訊いてもいいですか」
「なに?」
「なぜ、スケートに行こうと思ったのですか」
滑れないのに、と続けようとしたが飲みこんだ。非難がましいことを言いたいわけではない。純粋に疑問に思っただけだ。
「受験生だったころの日記見つけてね」
話が飛んだ気がしたが、黙ってうなずく。
「それに、『滑る』って他の子の前で言ったら叱られたって書いてあったんだ。私はぜんぜん気にしてなかったけど」
「そういう時期もありましたね」
本人も言うように、彼女はそういうことには無頓着だ。だが、あのころはその手の単語を口にしないように神経を使った。もうそろそろ一年経つのだから、時間の流れというものは速い。
「だけど今は大学生になったから、もう滑りたい放題だー、って気づいて。そしたらやりたくなったんだ」
さっぱり理解できない。
だが、これはいつものことなので、さらっと流すことにした。追求しても、納得や理解のできる答えはないのだろう。つくづく、自分にはない思考回路を持っている存在だと思う。
「初対面の人間にどう接するか」「困難に直面したときにどう対処するか」などの質問を投げかけられたとき、確実に、彼と彼女では答えが違う。同じ回答になる方が少ないはずだ。
それなのになぜ、一緒にいて苦痛ではないのだろう。そう思える他人は初めてだ。……「他人」呼ばわりにすら抵抗を感じることも。
「不思議なんだけど、ルーイは甘いの好きなのに、なんでコーヒーしたの?」
「からかわれるからです」
「え? なんでー?」
「私はこの見た目ですから、甘いものがアンバランスに見えるとかで」
ガタイがよくてむさくるしい男が砂糖を好んではいけない、という法律はないのに、不条理極まりない。だがいちいち討論するのも面倒で、こうしてブラックを飲む習慣がついてしまった。
「じゃあ、私の飲む?」
ココアを目の前に差し出され、ぎょっとした。
「いえ、結構です」
「遠慮しなくていいよー? 一口十円とかぼったくらないからさ」
遠慮というよりも、気おくれだ。
彼女の唇がふれた飲みかけにそのまま口をつけるということは、つまり。
「間接キス、はちょっと」
「え? あっ」
ようやく気づいたらしい。瞳がまんまるになった。ついで、顔が赤くなる。
「私、気づかなくて」
おや、と思った。
最初のころもこういうことがあったが、そのときはまったく気にする様子がなかったと記憶している。なぜ、今になって恥ずかしがるそぶりを見せるのだろう。
彼を悩ませてきた、うかつさのようなものがなくなってきたのは、とても好ましいことではある。そのことで今まで何度もひやひやさせられてきたのだから。
……それなのに、拒絶されたような気持ちがする。彼女が離れていってしまうような。
ブラックコーヒーよりも苦いものが、心に広がっていく。
「ねえ、ルーイ」
コーヒー缶の「ブラック」の文字を爪で引っかきながら、彼女が言う。
「私は、からかわないから。だから、甘いの、飲めばいいよ。見た目とか気にしないで、好きなの選びなよ」
なんだか肩が軽くなった気がした。うなずくと、はにかむように笑って見せる。
「約束だよ」
心臓が、砂糖を流しこまれたように甘い。そして、かすかに痛い。
なにを期待しているのだ。……なにも期待などしていない。
――俺は、ナイトなんだ。
だから、ひたすら守ることに徹していなければならない。いつか、彼女を迎えに来る王子様が現れるまでの代役として。
つなぎでしかないのは、フランシスの代理を命じられたあのときから変わらない。
コーヒー缶に隠れて自嘲しようとして、だが、唇はいびつな形にしかならなかった。
スケート場を出たときには、もう夕暮れだった。東には藍が、西には朱が広がり、夜を織りなそうとしている。
車に乗りこむなり、彼女は後部座席に寝そべった。よほど疲れたのだろう。休ませてやりたいと思ったので、話しかけるのはひかえて、粛々と家路につく。
移動中に眠ってしまうことが多いので、今日もそうなるだろうと思っていたのだが、予想は外れた。声をかけるなり返事が来て、めずらしいこともあるものだ、と目をみはる。
すぐに降りるだろうと思っていたが、なぜかもじもじとして動こうとしない。
「……今日、何月何日?」
「今日ですか? 二月の――」
日付がぱっと出てこなかったので、時計の文字盤に目を落とす。
「十四日です」
目線をもう一度彼女に戻したとき、目の前には可愛らしくラッピングされた箱があった。
「バレンタインおめでとう」
ようやく気づいた。思い出してみると、スケート場でもカップルが目立ったような気がする。
彼女からバレンタインの贈り物をもらうのは初めてではない。毎年もらってきている。もちろん、ホワイトデーにはちゃんとお返しも贈った。
つい最近のように思っていたが、いつの間にかその季節が巡ってきたのだ。今年もまた一ヶ月、お返しに悩む日々が始まる。だが、けしていやなものではなかった。
「ありがとうございます」
礼を言って受け取る。彼女はやけにぎくしゃくとうなずいた。
これで用は済んだのだろうと思っていると、そうではないらしい。髪の毛をそわそわとさわりながら「あのね」と落ち着かない様子だ。むしろここからが本題なのかもしれない。
「聞いてほしいことがあるんだ。……助手席、行っても、いい?」
「かまいません」
彼女の緊張がさらに色濃くなった。後部座席から助手席に乗り直し、困ったような照れたような瞳で、彼のネクタイのあたりを見ている。
「ルーイに初めて会ってから、そろそろ、三年になるね」
「そうですね」
「今まで、私を守ってくれて、ありがとう」
「いえ、大したことは」
それは本心だった。お礼を言われるほどのことはなにもしていない。言ってほしいとも思わない。彼女を守り、共にいるのは、彼自身も望んだことだ。
だが、脈絡なくそんなことを言い出すなど、なにかの予兆としか思えない。それも、とびきり悪いことの。
思い当たりはないが、彼にとっては些細なことが、彼女にとっては大問題だったのかもしれない。そう考えると、今度は急に思い当たりだらけになった。
ちらちらと彼を見ては、ためらうように目を伏せたり視線をそらしたりする。思わせぶりなしぐさのせいで、全身がかゆい。苦しさを逃がすために、受け取った箱を強く握りしめた。
ふと、気づく。
付き合いの長さに言及したり、今までのことに感謝を述べたり……これは、別れを告げられる前段階ではないだろうか。それならばつじつまが合う。
心臓が騒いだ。むずむずする感じは消えたが、代わりに、全身に力が入らなくなる。なにか大事な核をなくしてしまったかのようだ。
決心したように彼を見つめた瞳は、まっすぐで、目もそらせない。
「もう一つ、聞いてほしいことがあるんだ」
耳をふさいで彼女の言葉から逃げることは許されない。
すう、と息を吸う音が、やけに大きく響いた。
「私、ルーイのことが、好き」
脳みそが止まるのを感じた。
ゆえに、十秒もないその言葉を、理解できない。
硬直している彼にかまわず、いや、そんな余裕もない様子で、彼女はさらに自らの想いを告白する。
「アルフレッドにキスされそうになって、私は誰が好きなのか、やっとわかった」
彼女は自分で自分を抱く。手が、ふるえていた。
「やさしいところも、強いところも、厳しいところも、笑ったところも、怒ったところも、ルーイの全部が好き」
「……」
「これからも守って……ほし、いんだ。恋人と、して……」
感情が高ぶりすぎたのか、彼女は涙目になっていた。鼻先が真っ赤に染まる。まばたきをすると、ハシバミの瞳が濡れた。静かな雫がこぼれる。
――泣かないでくれ。
頬についた涙の筋をこする。考えてした行動ではなく、無意識に染み付いてしまった動作だった。やわらかな肌のぬくもりや感触を、指先はもう覚えている。
「あ、の」
重い足かせを引きずりながら一歩を踏み出すように、なんとか言葉を絞り出した。どうにか声にすれば、次はそれほど難しくない。
「突然の、ことなので、その……驚きました」
「うん、そんな顔してる」
苦笑する顔に、少しだけ気持ちが落ち着いた。向こうも緊張がゆるんだようだ。
「ごめんね、いきなり」
「いえ」
「だけど、どうしても今日言いたかったんだ。バレンタインだし」
彼女は目をこすり、大きく深呼吸する。
「すっごく緊張したー……。心臓がばくばくしてる」
「……お疲れ様です」
「ありがと。……って、告白した相手に言われるって変な感じ」
それもそうだ。だが、混乱のせいで適切な言葉を選ぶことができない。彼も深呼吸する必要があると感じたが、普通の呼吸さえままならない。
「それでね」
「はい」
「告白の返事、聞かせてくれる?」
期待に満ちた瞳。それが濁るのか輝くのかは、自分にかかっている。そう考えると、おそろしくてたまらない。
彼女に出会ってからずっと、不安定な感情の天秤を調整してきたのだと思った。皿に努力という分銅を載せて、「幸せ」と「笑顔」にかたむくように。
たった一つの分銅で均衡が壊れてしまう。彼女だけではなく、彼の天秤も。
「ルーイは、私のこと、どう思ってるの?」
危なっかしくて、見ていてはらはらする。愛らしい容姿やか弱い体つきやはつらつとした性格が、時おり、はかなげに見えて気がかりだ。
だからこの手で守りたいと思った。彼に与えられた任務は、この意思にそぐわないものではなかった。
――惑わされるな。
感情よりも任務の方が先だったのだから、これはただのメカニズムだ。どうせ守るなら、憎い人物よりも好ましい人物の方がいい。自分に都合がいいように錯覚しているだけだ。
だが、もし、この気持ちが錯覚なら、一体なにを本物だと呼べるのだろう。
「……時間をいただけますか」
「え?」
「今すぐ返事をすることは、できそうにありません。……ゆっくり考えさせてください」
卑怯なことを言っている。そう思った。
彼女は戸惑いを隠さなかった。だが、ぎこちない笑みを浮かべる。
「うん、いいよ」
ほっとした。だが、彼女の次の言葉に、再び気を引き締める。
「でも、あんまり待たされるのつらいから、来月のホワイトデーに、返事くれる?」
「……はい」
うなずくという行為を、こんなにも真摯(しんし)にしたことがあっただろうか。
勇気と決心を持って、告白に応えなければならない。彼女もそうしたのだから、中途半端にしたくない。
「チョコレート、今年のは自信作なんだ。あとで食べてね」
快活に言って、彼女は車を降りた。いつもなら家に入るまで見守るのだが、今日ばかりは自分の膝の上から視線を上げられない。
ドアの閉まる音が聞こえて、身体から力を抜いた。
彼女がくれたプレゼントの箱は、力を加えすぎて変形している。開けてみると、中身はトリュフだった。適当に一つ選んで口に入れる。
最初はココアパウダーの苦さを感じたが、すぐに、まろやかな甘さが口の中に溶けだした。雪でも食べているかのように、すぐになくなってしまう。
自信作と言うだけあって、彼女からもらったチョコレートの中で、一番の出来だ。誰もが「おいしい」と絶賛するだろう。だが、二つめに手を伸ばす気にはなれなかった。
もう後味すら残っていないのに、苦さと甘さが、しつこく彼を苛(さいな)んだ。
続きへ⇒
↑「Your Knight」目次に戻る
10/07/21