Which do you like?



 二月が二十八日間しかないことを不思議に思ったことないだろうか。
 その起源はローマ時代にまでさかのぼる。ローマ暦では三月が年始で、二月が年末だった。一年を三百六十五日に調整するために、二月は二十九日間(閏年のときは三十日間)になった。
 しかし、自分の名の冠された月を一日多くした皇帝が、ただでさえ日数が少ない二月から不足分を補ってしまった。
 こうして、平年の二月は二十八日間になってしまった、というわけである。
 なにが言いたいのかと言えば、つまり、もっと時間がほしいのだ。一日、いや、コンマ一秒でも多く。彼女の告白にどう返事をするかを考える時間は、たくさんあって困るものではない。むしろ助かる。
 あの日から、このことが片時も頭を離れずにいる。なにをしていても、気を抜いた瞬間に思考へ忍びこむ。
 今もそうやって、眠れない夜を過ごしている。
『私、ルーイのことが、好き』
 何度も何度も再生された声が、心臓の居場所を奪う。
 なぜ気づかなかったのだろう。いつかフランシスが言っていたように、該当する人物は一人しかありえなかったのに。なにも変わらなくても、せめて覚悟くらいはできたはずだ。
 ――過ぎたことより、他に考えることがあるだろう。
 そう、告白の返事についてだ。
 ――俺は、彼女を。
 好きか嫌いかの単純な二択なら、呼吸をする当然さで前者を選ぶ。
 では、その「好き」の度合いは? 守る対象として? それとも、……彼女と同じ気持ちで?
 今までそのことから目をそらし続けていたツケを払うときがきた。わからないと逃げ、先延ばしにしてきた怠惰はもう通用しない。
 ここにきて、今まで彼女に抱いていた感情の寄る辺が、「ボディーガード」か「ルートヴィッヒ」なのか、それさえわからなくなってくる始末だ。
 守りたい。笑っていてほしい。幸せであってほしい。
 そう願い、それを行動原理としていたのは、どちらの自分だったのだろう。両者は複雑に絡まり、手の付けようがない状態だ。
 彼女に出会うまではそうではなかった。公私は境界線からはっきりと分かれ、それぞれ単体として存在していた。その状態がもはやなつかしい。
 こうなるまで気持ちをかたむけた人物は、過去はもちろん、未来にも存在しない。
 これが、つまり、……恋、なのだろうか。
 恋。
 かっと全身が熱くなった。まだ寒さが残るのに、毛布を床に投げる。一気に冷たい空気に包まれたが、それでも火照りは収まらなかった。
 それがどういうものなのか彼は知らない。それを主題にした文学や映画や絵画を見ても、なにも感じなかったし、腑に落ちることもなかった。どこか遠い遠い世界の事象くらいに思っていた。
 今までは傍観者だった。そうあるべきだった。だが今は違う。彼はもう当事者だ。「気のせい」「錯覚」と強引にラベリングした感情のふたを開けて、一から考え直さなければならない。
 最初からわかっていたはずだ。彼女は彼を変えてしまうおそろしい人物だと。知っていながら逃げられなかった。むしろどんどん深みにはまっていったのは自分だ。
 笑ってくれるとうれしくて、泣いていると心配で、頼られると意気ごんで、そのくせ、あまりに近いと怖気づいた。それでいながら、あいまいな関係を歯がゆく思った。
 ――俺は。俺は……。
 眠れない。眠くない。眠ったとしても、きっと、夢の中まで追いかけてくる。


 時間は無情に過ぎ、とうとうホワイトデーまで残すところ三日となってしまった。
 彼女を送ってから、社に戻る。帰ろうしていると、肩を叩かれた。フランシスだ。
「上がりか?」
「はい」
「じゃあ、お前、このあと用事あるか?」
「ありません」
「ならよかった。これからアントーニョと飲むから、お前も来いよ」
 眉を寄せた。今まで一度もこういった誘いに応じたことはない。そもそもあまり誘われないので、フランシスもそれを承知しているはずだと思っていたのだが。
 断ろうとしたそのとき、「タンマ」とさえぎられる。
「一人で悩んでたって、ラチが明かないぜ? おにーさんに相談しろよ」
 まるでなにもかも見透かしたような言葉に、ぎくりとする。まさか、知っているのだろうか。誰にも話せずにいる胸の内を。
 出方をうかがっていると、フランシスはにんまりと笑った。
「来るだろ?」
「……」
 うなずいてしまったのも、無理はないと思う。

 促されるまま洗いざらいぶちまけてしまってから、後悔した。
「フェリちゃんに告白されたん? お前、色男やなー」
 最初からいきなりかっ飛ばし、すでにほろ酔いのアントーニョが背中を叩く。力の加減がされていないので、かなり痛い。顔をしかめてしまう。
 カラン、とグラスの中の氷を揺らしたのはフランシスだ。おもしろがるような表情をしている。
「フェリシアーナもなかなかやるな」
 ジョッキに口をつけ、ビールをあおる。ごく、ごく、と飲み干して、大きく息をついた。少し暑くなってきたのでネクタイをゆるめる。
「あーあ、逆玉かよー。ま、結婚式には呼べよな」
「俺も先越されんようにせんとなあ」
「お前のときにも呼べよー? でないとお兄さん泣いちゃう」
「まかしときー」
 勝手に話を進めていく二人を、あわててさえぎった。
「私はまだ、どうするか決めていません」
「付き合えばいいじゃねえか」
「ってかもう付き合っとるんやなかったん?」
 ゆるやかな怒りが、全身に満ちる。
 二人にはわからないのだ。夜も眠れないほどの焦燥も、困惑も、混乱も。だがうまく伝えられるとも思えない。そのじれったさともどかしさが、さらに彼を悩ませる。
 きつく握りしめた拳をちら、と見やり、フランシスがあきれたようにため息をつく。
「もっと楽に考えろ。フェリシアーナを好きか、嫌いか。それだけだろ?」
 それだけで済んだらこんなに悩んだりなどしない。
 他人事だからと適当なことを言えるのだ。でたらめなアドバイスがひどく不愉快で、やはり来るのではなかった、と腹が立った。流された自分も不快だ。
 そう思ったのが顔にも出たのだろうか。フランシスの顔が、いきなり真面目なものになる。
「お前にとってフェリシアーナは『女』なのか『お嬢様』なのか。つまりはそういうことだろ」
 とっさに言葉が出てこなかった。あまりにも的を射すぎていたからだ。
 今まで接してきたのは、どちらだったのだろう。きっと彼女にとってはどちらも同じなのに、彼から見ればまったくの別物だ。二つを重ねることができない。
 だから、どちらかを選ぶしかないのだ。彼にとって、もっとも好都合な方を。
 だが、その選択が、彼女を傷つけることになったら。
「言っとくけど、『フェリシアーナを傷つけないために付き合う』とかいうのはやめろよ」
 なぜ考えたことがわかったのだろう。目をみはると、「お兄さんをナメるなよ」と笑う。
「傷つけたくないって気持ちわかるぜ。でもな」
 グラスの中身を飲み干し、フランシスは息をついた。
 申しわけ程度の照明に浮かび上がった横顔には、深い陰影が落ちている。
「そんなん、なんにもなんねえんだよ。最初はよくても、そのうちボロが出る。お前は不器用だから余計にな」
 口の中に苦さがこみ上げる。ごまかすようにグラスをかたむけても、けして消えることはなかった。
「なんか含蓄のあること言うやん」
「あったりまえだろ。これでも妻子持ちだぞ俺」
「せやったなー」
「そういえば聞いてくれよ、この前ジャンヌたちがさ――」
 二人の会話が頭を通り過ぎていく。
 あえて自分に話題を振らないようにしているのか、それとも単に無視されているのかはわからない。だが、いずれにしても今はまともに会話することはできなさそうだった。
 ほったらかしにされるのがやけに居心地がよく、そして、ありがたかった。


 そしてとうとう、当日。
 彼女のリクエストで、また、スケート場に来た。バレンタイン以来だがブランクはすぐに取り戻せたので、早速、一人で滑れるように練習をはじめた。
 手を引いて滑り、慣れたころを見計らって声をかける。
「では、いいですか」
「うん」
 うなずいたのを確認して、そっと手を離す。スピードを上げて距離をとり、止まった。
 ふらついて曲がりそうになる背中を努めてまっすぐに伸ばし、彼女が進む。一生懸命なその姿を、誰が憎らしいと思えるだろうか。
 彼の立っている場所の直前であわあわとブレーキをかける。腕をつかんで支えた。
「お一人で滑れるようになりましたね」
「うん、ルーイのおかげ。ありがとう!」
 心からうれしそうに笑って見せる。足元はしっかりしていても、気持ちがぐらりと揺れるのがわかった。
 返事はもう、決めていた。
 決めた以上、変えるつもりはない。自分に言い聞かせて、平静を装う。
「ルーイ」
「はい」
 彼女はそわそわと落ち着かない様子だった。彼の顔を見たり腕を見たり他のスケート客を見たり、やたらときょろきょろしている。
 どう返事をするのか、気になるのだろう。早く聞きたいが、ためらっている。笑うように唇をゆるめた次の瞬間に、きつく引き結ばれる。
「……もっと練習しようか」
「はい」

 帰りには冷えきった身体を温めるために、また自販機で飲み物を買った。彼女はミルクティー、彼はホットのはちみつレモンを選んだ。
 そのチョイスに、彼女は顔をほころばせる。
「約束したから?」
「……ええ」
 彼女の前では、あえてブラックコーヒーを選ぶ必要はない。なので前から気になっていたものを買ってみた。さっぱりした甘酸っぱさが口の中に広がって、身体がぽかぽかと温まる。また買ってみてもいいかもしれない。
 家路につく車の中は静かだった。
 逃げられない瞬間がじわりじわりと近づいてくる。その影が、重くたれこめる。
 とうとう家に着いてしまった。降りる気配はない。
「……ルーイ」
 彼女らしくもなく強ばった声が、耳を打つ。
「告白の返事、聞かせて」
 運転席から後部座席の彼女に振り返る。真剣な眼差しが彼を待っていた。
 息を吸う。吐く。そうして暴れる心臓をなだめた。
 かさかさになったのどに、唾を流しこむ。くっついた唇をこじ開ける。
「私は」
 まるで自分が他人のようだと思った。幽体離脱で自分を見下ろしたら、こんな感じだろうか。
「貴方を」
 次に続ける言葉を頭に浮かべて、ひるんだ。
 この選択でいいのだろうか。
 これが自分の本心なのだろうか。
 これで後悔しないだろうか。
 目まぐるしい問いかけが頭にあふれる。そのすべてに答えるように、言った。
「これからもお守りしていきたいと思います」
 彼女の表情が、パッと明るくなった。彼の言葉をどう解釈したのかは明らかだ。
 それをひどく冷淡に見る自分を自覚しながら、続けた。
「ボディーガードとして」
 笑みが、凍りついた。
 消しゴムをかけられたように、すうっと華やぎが消える。困惑が取って代わる。
「嘘でしょ?」
「……」
 沈黙が長引くにつれ、表情が歪んでくる。眉と眉の間に、悲痛が浮かぶ。
「……なんで?」
 絞り出すような細い声が、耳を刺す。短く浅い息をしているのは、涙をこらえるためだろうか。
「私では、お嬢様につり合わないと思います」
「そんなこと」
 否定しようとするのを、手のひらをかざしてさえぎる。
「お嬢様は、いずれ、ロヴィーナ様と共に会社を背負う方です。一介の社員に過ぎない私よりも、もっとふさわしい男性がいます」
「でも、」
「それに、お嬢様と私の年齢はご存知でしょう」
「ふさわしいとかつり合わないとか、関係ないよ!」
 ぐ、と腕をつかまれる。指が食いこんで痛かったが、耐える。
 彼女は、もっともっと痛い。
「どうして会社のこととか年齢差とか、そんなこと気にするの?」
 あっという間に看過されて、動揺を隠せない。自分でもわかっている。これはただの屁理屈だ。
 あたかも彼女の立場が原因であるかのように、問題をすり替えている。真の焦点は、彼の気持ちであるのに。
「ルーイは、私のこと、好き?」
「……お嬢様は、誰よりも特別です」
 おそらくは、初めて会ったあの日から、ずっと。
「それは、好きってこと?」
 核心を突く尋問に、もう、のらりくらりと逃げられないことを悟る。
 武器もなく最前線に放り出された兵士は、こんな気分だろうか。
「私の『好き』と、お嬢様のおっしゃる『好き』は、同じではありません」
 だから、「ボディーガード」であり続けることを望んだ。
 傍観者の立場から彼女を守り続ける方が、はるかに居心地がいい。「恋人」として彼女を自分の内側に受け入れるよりも。
 こんなに卑怯で怠惰な感情が自分の中にあったことなど、知りたくなかった。知られたくなかった。だから、知られずに済むように彼女を拒まなければならない。そんな、都合のいい言いわけをしている。
「そう。……そうなんだ」
 腕をつかんでいた手が、だらりと垂れる。うつむいたせいで、前髪が表情を隠してしまう。ふるえるたびに、髪が揺れ、顔が見え隠れした。
 ――傷つけた。
 自分以上に幸せを願い、今日まで守り続けてきた彼女を、傷つけた。他ならぬ自分が。
「申しわけございません」
「……ルーイがそういう気持ちじゃないなら、仕方ないよ」
 面(おもて)を上げた彼女は――笑っていた。
 泣かれるよりもなお激しい罪の意識が、胸を刺す。あんなに泣き虫な彼女が涙をこらえるのは、ひとえに、彼を慮(おもんぱか)ってのことだ。
 想いの深さを思い知らされた気がした。節穴だった目を無理やりこじ開けられたようだ。だが今さら気づいたところで、どうにもならない。
「『特別』って言ってもらえて、うれしかった。それだけで充分」
「……」
「だから、今までみたいに、これからも私を守って」
「クビにしないのですか」
 好意を無下にするからには、そうなるだろうと覚悟してきた。いや、むしろ、自分から辞めるくらいに腹をくくっていたのだが。
「私は、ルーイがいい!」
 張りつめた彼女を前にして、なにができただろうか。
 唇はゆがみ、瞳は濡れ、言葉はふるえ、それでも彼のために笑おうとしている。少しでも刺激を与えれば、もろい堰(せき)が壊れてしまいそうだ。
 致命傷を与えたのは自分だとわかっていても、いや、だからこそ、もうこれ以上傷つけたくない。
 だが、どうすればいいのか検討もつかない。下手になにかをして逆効果になるよりは、なにもしない方がいいかもしれない。
 ここまで来ても臆病な自分に、心底反吐(へど)が出る。
「……それじゃ、ね」
 玄関へと向かう後ろ姿が、泣いているように見えた。
 ――今ならまだ間に合う。
 どこからか沸き上がった焦燥に突き動かされて、車を降りる。ドアを開け閉めする音に気づいたらしい彼女が振り返った。
 静寂が耳鳴りを呼ぶ。彼らの間に横たわる距離が、だんだん肥大していくような錯覚に襲われる。めまいとも立ちくらみともつかない振動が、彼女の姿をぶれさせる。
 唐突に思い出したのは、初めて別れたあの日の光景だった。
 頬を包んだ手のひら。やわらかくふれた唇。「またね」とささやく声。ひるがえるスカート。軽やかな足取り。一瞬だけ絡まった視線。昨日のことのように思っていたのに、はるかに遠い。
 潤んだ茶色の瞳が見つめている。求めている。……なにを? そんなこと、わかりきっている。
「っ……」
 喉が糸よりも細く狭まる。呼吸すら危うい状態では、言葉など出るはずもない。仮に声が出たとして、なにを伝えたいのだろう。
 「ボディーガード」の立場を求めたのは彼自身だ。今さら言うことなど、なにもない。
 それでも、と追いすがりたい矛盾に腹が立ってきて、拳を握りしめた。つながっていた視線を断ち切って目を伏せる。少しの間があって、彼女が動いた。
 全身が緊張する。皮膚という皮膚から冷や汗が流れる。些細な動作一つで心臓を止められてしまう気がする。
 だが、気配がこちらに近づいてくる様子はなかった。むしろ遠ざかる。ドアが閉まる音が聞こえて、顔を上げる。
 もうそこに彼女の姿はなかった。影も形も残ってはいない。ただ、彼を拒むようなドアがあるばかりだ。
 どこかほっとしている自分を認められずに、ルートヴィッヒは唇を噛み締めた。



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10/08/07