臆病者の勇気



 三月の十五日と十六日、つまり返事の翌日と翌々日は、フェリシアーナに会わなかった。
 会えなかった、と言う方が正しいかもしれない。いつものように邸宅に迎えに行ったところ、ロヴィーナに門前払いを食らったのだ。
「帰れ」
 腕を組み、胸を張り、なにがなんでもルートヴィッヒを通さない構えを見せる。つり上がった眉は勇ましい角度で、そうしていてもやはり、柳眉であることに変わりはなかった。
「妹には絶対に会わせないからな」
 かよわい女性一人くらい、彼の腕力や体格を持ってすれば、さしたる苦労もなくどかせられる。だが、相手が社長の孫娘だということを除いても、そんな気にはなれなかった。
 姉が、妹を守ろうとしている。守りたいと思うのは彼と同じ――いや、肉親の情が含まれて、なおさら強い。それを力でねじ伏せることはしたくない。そこまで卑劣な人間になりきれない。
「お嬢様が、こうするようにおっしゃったのですか」
「私がお前とあいつを会わせたくないだけだ。文句あっか」
 理屈に先走る感情を、ここまで露骨に見せつけられると、どうすればいいのかわからない。
 理論武装した相手なら負ける気はしないが、感情論を持ち出されては勝てない。
「つか、どこの世界に昨日フラれたばかりの相手に会いたがるやつがいるんだ」
 それもそうだ。妙に納得してしまう。それに、実のところを言えば、彼だって気まずかったのだ。
 今日ほど出勤が憂鬱だった日はない。あのとき言うべき言葉はなんだったのか、一睡もせずに考えたが、結局答えは出なかった。重い身体を引きずるように出社して、処刑台に向かう死刑囚もかくやという絶望感を同乗者として、ここに来た。
 むしろ都合がいいくらいだ。そう思ってしまう自分が浅ましくてしょうがない。
「……わかりました」
「明後日のパーティーまで来んなよ。とにかくさっさと失せろ」
 言われるがままに背中を向けたのだが、「ムキムキ野郎」と呼び止められて、振り返った。
「フェリシアーナのこと、大事か」
 眉をひそめた表情が、涙をこらえていた彼女とやけに似ている。こうして見ると瓜二つだ。さすが双子、と言ったところか。
 彼女は今、自室にこもって一人で泣いているのだろうか。もしそうなら、そして許されるのなら、その背中をさすりたいと思った。
「もちろんです」
「……そうかよ」
 ロヴィーナは苦々しい表情をした。


 十七日は、姉妹の誕生日パーティーが例年通りに開かれることが、以前から決まっていた。
 自宅に迎えに行き、パーティー会場まで送るのも、やはり変わらない。だが、メールで指定された時間になっても、彼女は出てこない。少し迷い、なんとか気まずさに打ち勝って、携帯に電話をかけた。
 最初のコールはつながらなかった。
 二度めにして、留守電に切り替わるギリギリのところでつながった。
『もしもし』
 だが、答えたのはロヴィーナだった。声のよく似た姉妹だが、不機嫌そうな調子ですぐにわかる。
 かけ間違えたかと思ったが、すぐに自分でその可能性を打ち消した。そもそも彼は、ロヴィーナの携帯の番号を知らないのだ。間違えようがない。
 なぜ彼女が取らなかったのか尋ねようとして、先手を打たれた。
『あいつは今トイレに行ってる。だから代わりに私が出た』
 一瞬頭に浮かんだのは、自分の携帯を姉に押しつけ、「代わりに出て」と懇願する彼女の姿だった。それが事実にせよ被害妄想にせよ、確認するすべはない。本人に訊いたところで、素直に答えないだろう。
 今は無意味な追求をするよりも、所在を確認することが最優先だ。
「どちらにいらっしゃるのですか」
『パーティー会場。お前が遅いからフェリシアーナは私と来たんだよ』
 遅いはずがない。むしろ早めについたくらいだ。彼女が指定した時間に、……。
 ――まさか。
 思いついてしまった可能性に、寒気が走った。そんなはずはない。ないと思いたい。だが。
『お前も早く来い』
 一方的に言われて、電話が切れた。

 パーティー会場は、今までで一番の人出だった。大学の違う姉妹が、それぞれ学校での友人を招いたからだろう。映画鑑賞サークルのメンバーもいた。
 主役の一人である彼女の周囲には、人がひっきりなしに集まっている。来客にお礼を言ったり、知り合い同士を紹介したり、かなり忙しいようだった。
 だが疲れたような表情は一切見せない。お祝いを言われたり、プレゼントを手渡されたりするたびに、ずっとにこにこ笑っている。
 目を赤く腫らして、泣き続けているのだろうと勝手に想像していた。そんなはずがない。彼女は、気持ちの切り替えがよくも悪くも早い。いつまでも引きずったりはしないだろう。
 もしそうなら、また以前のように戻れるかもしれない。彼女に振り回されて、それもなぜか楽しく思えていたあのころに。なにもなかった顔をして。
 ――できるはずがない。
 独りよがりにもほどがある。彼女の気持ちを無視して、自分の都合を押しつけているだけだ。そんな低俗な人間にはなりたくない。
 自分への嫌悪感は募る一方だ。だが、解決策は浮かばなかった。いや、ちらちらと見え隠れしているのはわかっているのだが、あえてつかみ取る度胸はない。
 それは、劇薬。
 ふれたが最後、なにもかもが破壊される。
「わっ」
 軽い悲鳴とざわめきが聞こえて、目を向けた。さっきまで立っていた彼女が、情けない笑みを浮かべてその場にへたりこんでいる。周囲にはプレゼントが散らばっていた。
 身体が勝手に動いて、彼女の元に駆けつける。そして、手を差しのべていた。
「ありが――」
 手をつかみながら顔を上げた彼女は、目が合うなり、お礼の言葉を凍らせた。視線をそらし、手を引っこめたそうなそぶりを見せたが、彼が腕を引くと、そのまま立ち上がった。
 立ち上がっても、彼を見ようとしない。唇をきつく引き結び、頑然とした態度を見せる。いつも人当たりのいい彼女の、そんな様子を見るのは初めてだった。
「お誕生日、おめでとうございます」
「……ありがとう」
 声は、すべての感情を消したように固い。さっきまで輪の中心でにぎやかにやっていたときとまるで別人だ。普段の彼らを知っている客の何人かが、不思議そうな顔をした。
 迎えの時間の件について質問したかった。だが、人の目があるし、ここは祝いの席だ。一歩間違えれば気まずい空気になる話題はふさわしくない。他のものを、とは思ったが、なかなか浮かばない。
 あせる間にも、無為に時間が流れていく。
「……手」
「え」
「もう、放していいよ」
 言われてみれば、まだつかんだままだった。反射的に放してしまってから、もう少しつかんでいればよかったと後悔する。彼女はけがをかばうようなしぐさで、つかまれていた手を包んだ。
「大丈夫、ですか」
「……なにが」
「いきなり座りこんでいらっしゃったので」
「あ……うん。ヒールが高くてよろけちゃっただけ」
 思わず足元に目をやる。いわゆるピンヒールと呼ばれる類(たぐい)だろう。よくこれで歩けるものだと感心してしまうくらいだ。
 ふと気づけば、あたりに散らばっていたプレゼントは、他の参加者たちに拾い集められていた。
「悪いんだけど、今ここにあるの、車に運んでくれる?」
 これは、遠まわしに「そばに来るな」と言われたのだろう。
 今の態度ではっきりしたことがある。彼女は、手違いではなく故意に迎えの時間を遅らせて教えたのだ。二人きりにならないように。彼と話をせずに済むように。
 甘えていた。彼女は人懐こくて、いつだって笑っていて、それをいいことに、なにをしても許されるだろうと思い上がって。
 だから、こうしてしっぺ返しがくる。手痛い拒絶をされる。
 なにもかも自業自得だ。
「……わかりました」
 冷静さを装うのは、身体に染み付いている。なにも難しいことはない。
 えぐられるような胸の痛みも、傍目にはきっとわからないだろう。


 パーティーは数時間続いたが、会話はあれだけだった。
 この調子だと帰りはどうなるのだろう。不安なまま、お開きを迎えてしまった。
 会場の片づけはフランシスやヘラクレスなど、他の社員がやることになっている。彼の仕事は、彼女を家まで送り届けることだった。
 アントーニョに続いて、会場の車寄せに到着する。ちょうど、最後の一人となった招待客に、姉妹がお礼とお別れを述べているところだった。「ありがとう」とか「帰り道に気をつけろよ」とか言っているだろう。
 招待客の乗った車が出ていくのを待って、車を彼女の前に回した。
「帰りましょう」
 窓を開けて声をかけると、彼女はびくりとした。アントーニョの車に乗ろうとする姉の元に走って行き、しがみつく。
「お願い、帰りも一緒に乗せて!」
 そこまであからさまに避けられると、さすがにショックだ。だが、不平を言う権利などない。もちろん、強引に自分の車に乗せることも。
 ロヴィーナは、ルートヴィッヒとフェリシアーナを見比べた。ため息をつくと、妹をぐいと引き離す。
「ルートヴィッヒと帰れ」
 意外だった。ロヴィーナは彼のことを嫌っているはずだ。にらまれた記憶しかない。それなのに、こんな発言をするとは。
 彼女も同じ衝撃を受けたようで、「なんで」と詰め寄った。
「こうなること、考えなかったのか」
「考えたよ! ……でも、まだ、そんな気になれない」
「うだうだ言うな」
 無理やり腕をつかみ、力づくで後部座席に押しこむ。嫌がるのを無視して、ロヴィーナはドアを閉めた。彼女は絶望的な様子でうつむいてしまった。
 どうすればいいのか困っていると、開けたままだった窓から、ロヴィーナが顔をのぞかせた。
「おい、お前ら」
「はい」
「蹴りがつくまで帰って来んな」
 言い残し、アントーニョの車に乗りこんでしまう。すぐに発進して、見えなくなってしまった。
 残されたのは、どんよりしたフェリシアーナと、困惑するばかりのルートヴィッヒである。
 彼女がどうしても嫌がるのなら、会場に戻って、代理をやってくれる者を探すこともできる。もし見つからないなら、タクシーを拾えばいい。
 だが、彼女は人形のようにうんともすんとも言わなかった。降りたがるそぶりも、乗り続けようとするそぶりも、どちらも見せない。
 迷いながらも、ゆっくりと車を出した。

 到着するまで、ひたすら無言の時間が続いた。
 高速道路を走りながら、ルームミラー越しに視線を向ける。彼女は投げ出すように身体をシートに預け、窓の外を見つめていた。ナトリウム灯で、横顔が浮かび上がっては闇に沈む。
 彼女を乗せて運転するのは、そういえば二日ぶりだ。告白の返事を訊きたがりながらも切り出せずにいた、あのそわそわした空気がまるで昔話のようだ。
 ――俺が走っているのは、長い長い時間の上なのだろうか。出会ってから今までの数年間の。
 何度かそんなことが頭をよぎった。道路わきに目を向ければ、共に歩く彼らの幻が見えそうで、ただ前だけを見つめた。
 そうしているうちに、家に着いてしまう。気だるげな様子で降りようとするのを引き止めた。
「私の話を聞いてくれませんか」
 彼女の表情に、一瞬だけ、なにかの感情が現れて消える。
「いや」
「お願いします」
「やだ!」
「すぐに済みます」
「……」
 彼女はなにもかもをあきらめたように、座りこんだ。身体を折り曲げ、ひたいを膝頭に乗せている。
 息を落ち着かせてから、言葉を乗せた。
「明日、社長にお会いして、異動願いを出して来ます」
 びく、と彼女の肩がはねた。
「受理されましたら、お嬢様には私ではない、他の社員が来るはずです」
「……それって」
「私は、お嬢様のボディーガードではなくなります」
「やだっ、やだよ!」
 ようやく、彼女が彼を見た。目が合ったことに一瞬気後れした様子を見せたが、胸のあたりで手を重ね、そうやって自分を奮い立たせたようだった。
「やめるなんて言わないで」
「ですが」
「避けたこと怒ってるなら、謝るから……だから……お願い」
 困惑してしまう。
 あんなに避けられたのだから、てっきり、嫌われたのだと思っていた。可愛さ余って憎さ百倍と言うが、そういうものなのだろう、と。
 だが実際には、彼女は泣きそうな様子で「やめないで」と懇願してくる。
「ごめん。ごめんなさい。……どうしたらいいか、わからなくて」
「……」
「ルーイに『今までみたいに』って言ったら、その通りにしてくれたから、私もそうしようって、思った。本当だよ。だけど……」
 小さな手が、ふるえはじめた。
「私の『今まで』は、ルーイが好きって気持ちで一杯で、だけど私はフラれちゃって、この気持ちをどうしたらいいのか、わかんないよ!」
 あっという間に瞳が涙で曇り、こぼれ落ちる。乱暴に頬をこすり、彼女は顔を手のひらでおおった。
 しゃくるたびにふるえる肩が、ひどく痛々しく見える。思わず手をのばして、包んでいた。束の間、緊張したようだが、すぐに腕の中に飛びこんできた。
「ルーイは、やさしいね。だけどひどいよ。好きになって、当然なのに」
 涙がシャツを濡らす。熱い吐息がふりかかる。腕の中にすっぽりと収まる、華奢で小さな身体。
 こんなに想われている。そのために彼女は泣いている。傷ついてもなお、彼を求めている。
 ――どうして俺は平気だったんだ。
 想われて。泣かせて。傷つけて。あんなに守りたいと願った彼女を、ここまで追い詰めて。
 ばたばたとにぎやかに玄関を飛び出し、「はじめまして」と琥珀の目を輝かせていた。「ルーイ」と今はもう耳慣れた響きで初めて名前を呼んだ。
 月明かりに白く浮かぶ顔。「ナイトみたいだね」と微笑んだ。「これからも守る」と約束した。背中の痛みも、まざまざとよみがえる。
 「大好き」と屈託もなく言って、いつも腕の中へ飛びこんできた。抱きしめ返すこともできない彼を、存在することで、糾弾しながら許していた。
 他人が、自分の中にいるのが嫌だった。自分のことなのに、その人物がいることで思い通りにいかなくなるのが、目障りで面倒だった。
 ひどい矛盾だ。
 今は、彼女が笑っていてくれることが行動原理で、彼女のためならどんな手間も惜しくない。疎ましいどころか、幸福すら覚えている。
 傍観者でいい? ……そんなわけがない。
 他人任せなどではなく、自分の力で、彼女を幸せにしたい。他愛もない話で笑わせたい。鍛えてきた腕で危害を加えようとするものから守りたい。
 報酬は、ただ、彼女の存在だけでいい。
 ――それなら、今、ここにある。
 抱きしめた。力の加減もできずに、強く。
 どうしてこんなに幸せな感触を今まで知らずにいられたのだろう。しゃくると弾む背中。呼吸のたびにふるえて、胸が甘酸っぱいような切ないような感情でちくちくする。
 手放したくない。いつまでもそばに置いておきたい。
 そうするために必要なのは、大げさな言葉ではない。たった三文字だ。――そして、今まで口に出せなかった、重い三文字。
「すきだ」
 嗚咽が途切れた。
「すまない。俺は自分の気持ちから逃げていた。そのことに、今ようやく気づいた」
 息を殺す彼女に、低くささやく。
「俺が臆病なせいで、傷つけた。……本当に、すまない」
「……」
「もう一度言う。……すきだ。遅くなって、申しわけない」
 彼女は首を振った。一度止まったはずの嗚咽がまたはじまって、彼を焦らせる。
「どうした」
「だって、う、うれしくて……ルーイぃ……!」
 ぎゅうぎゅうとしがみついてくる。いつも通りの困惑に、少しばかり甘いものが混じって、どうしようもない気持ちになる。なだめるように背中をさすったが、余計に泣かれた。
「好き、っく、ルーイが、好き」
「……俺もだ」
「すっごい好き、好き、好き……」
 しばらくして、ようやく彼女は落ち着いたようだ。ハンカチで顔を拭いてやる間も、絶対にしがみついた手から力を抜こうとはしなかった。
「そんなに力を入れて、痛くならないか」
「だって、手を離したら逃げちゃいそうなんだもん」
「……もう逃げないから、安心しろ」
「ん」
 うなずき、彼女は胸に顔を預けた。すんすんと鼻をすする音が聞こえてくる。
「なんか、夢みたい……」
「大げさだ」
「だって、ルーイが私のこと『好き』って言ってくれたし、敬語じゃなくなったし」
 言われてようやく、敬語が吹っ飛んでいたことに気がついた。
「申しわけござ――」
 唇に彼女の指がふれて、言葉は閉ざされた。
「敬語はもうナシ! ね?」
「……わかった」
「ついでだからさ、『お嬢様』もやめようよ。『フェリシアーナ』でいいから」
 ほら、呼んで。
 期待でいっぱいの瞳が彼を見つめる。照れ隠しに咳払いをした。なんとなく目をそらしてしまう。
「フェリシアーナ」
「もう一回!」
「なっ……フェリシアーナ」
「あと百回くらい聞かせて!」
 そろそろ羞恥心の自己主張に耐えきれず、がっくりとうなだれた。耳が熱い。ひどく真っ赤になっていることだろう。
 それなのに、悪くない、と思えた。彼女が笑ってくれている。うれしそうな様子で。それで、なにもかも満たされる。
「……どうしよう」
「ん?」
「どきどきしすぎて、おかしくなりそう」
 それはこっちも同じだ。頭がぐるぐるして、いっぱいいっぱいになっている。ありえないくらい速くなった鼓動を、どうやって落ち着かせればいいのだろう。
 ぎこちなく見つめ合う。だんだんお互いの顔が近づいていくのには気づいていた。とうとう、呼吸の音まで聞こえてしまうくらいの距離になって、鼻がぶつかる。
 息を飲みこもうとして、うまくいかずに喉でつかえた。呼吸を止めながら顔を近づけた、のだが。
「ちょ、ちょっと待って」
 いきなり彼女に肩を押され、距離を取られてしまう。なにが起こったのかわからなかったが、とりあえず窒息死しないように、こっそり呼吸を再開した。
 彼女はもじもじと指を組み、唇を指でこすったり髪を耳にかけたりしている。落ち着かない様子を見て、後悔に襲われた。
 いくらお互いの気持ちが通じ合っていても、直接的な行為には抵抗があって当たり前だ。もっとじっくり、時間をかけて進めていくべきだろう。
 そうは思うのだが、あせってしまう。出会ってからこういう関係になるまでに年月がかかった。そのせいか、遅れを取り戻すように――あるいは一気に我慢がゆるんだように――性急に彼女がほしくなる。
 落ち着け。自分に言い聞かせたが、むなしく空回りそうな予感が強い。
「いきなり迫って、悪かった」
「そうじゃなくて……」
 ではなにが問題なのだろう。
 こういうときは、状況を冷静に分析するのがよいだろう。いつだったか、彼女にくどいほど言い聞かせたTPOの出番だ。
 彼女の誕生日に、車の中で――そうか、ここが問題なのだろう。
 男である彼にはいまいちピンと来ないのだが、女というものはシチュエーションにとかくこだわる。好きな相手と初めてそういうことをするなら、なおさらうるさくなるだろう。
 さて、車の中というのは、はたしてふさわしいだろうか。
 ……ぎりぎりアウトのような気がする。もうちょっとムードのある場所や状況の方がいいだろう。たとえば夜景の見える丘の上とか、ロマンティックで甘い言葉のあととか。
 後者は無理だ。絶対無理だ。そんな能は持ち合わせがない。ならば、場所を移動するしかない。
「ここがいやなら、移動する」
「え? なんで?」
「……車の中でして、いいのか」
「私、そういうことにはこだわらないよ。『どこで』より、『誰と』『どんな気持ちで』っていうのが大事だと思うし」
「そうか」
 納得できたが、余計にわからなくなる。一体、彼女はなにを悩んでいるのだろう。
「なら、どうして」
「えっと……口紅、落とした方がいい?」
「口紅?」
「ついちゃうと困らない?」
「ん? ……あ、そ、それは」
 彼女の言わんとすることがようやく理解できる。そして、ぶわっと顔が熱くなるのを感じた。
「そ、そうだな、確かに、困るな」
 しどろもどろになりながら言うと、「だよね」と彼女もあわてたようだった。鞄からティッシュを取り出し、唇をぬぐう。少々乱暴に見える手つきだったが、なんとなく口を挟めない。
 口紅を拭き取り、さあ、と思ったのだが、彼女はまだもじもじしている。
「あああ、どうしよう。さっき泣いたからメイクぐちゃぐちゃだし、髪のセットも崩れてるし、コンディション悪すぎ」
「気にするな。どうせ暗くて見えない」
「それもそっか。……じゃあ」
 彼女が目を閉じる。一連のやりとりのおかげで緊張がほぐれていたはずだが、いざとなるとやはり緊張した。
 鼻をぶつけないように首をかたむける。ゆっくりゆっくりと距離を縮めながら、大事なことを忘れていたことに気づいた。
 気配が離れていくのは目をつぶっていてもわかったのだろう。彼女は不思議そうに目を開けた。
「どうしたの?」
「一つ、聞き忘れていた」
「え、なにを?」
「……して、いいか」
 おそるおそる尋ねると、彼女は目を細めた。
「許可なんて取らなくていいよ。もうルーイは『ボディーガード』じゃなくて、『恋人』なんだから」
「そう、だな」
「それに、……私もルーイとキスしたいって、思ってる」
 熱っぽい瞳に、ぞくりとした。
 腰を引き寄せる。ひたいをつけると、まぶたが下りる。ふれる直前、彼女が甘い吐息を漏らした。

 小さくふるえていたやわらかな感触を、一生忘れない。



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10/11/05