海と誓約



 今日のことは、一生記憶に残るだろう。
 緊張のせいかいつもの笑顔を忘れてしまっているフェリシアーナを見ながら、そう思った。
 吐き出すのをこらえている、と言われれば納得したかもしれない。顔色は悪く、眉の間には深いしわが寄り、唇はきつく閉じられている。つままれているシャツから、指先のふるえが伝わってくる。
 大丈夫か、と問うのは愚問だ。訊くまでもない。だが励ますのは苦手だ。悩んだ末、ぎこちなく肩の端に手を置いた。彼女はルートヴィッヒを見上げ、腕に頭をもたれた。ため息をつく。
「どうしよう、緊張する……」
 身体に余計な力が入っているのが見てとれる。あまりいい状態だとは言えない。肩に置いた手で軽く揉みほぐしてみると、ほう、と息をもらした。
 エレベーターはまだ来ない。階数の表示はカウントダウンのようだ。早く来てほしいような、ほしくないような、あいまいなもやが胸の中で渦巻く。
「フェリシアーナ!」
 エレベーターホール中に声が広がった。複数人の足音が天井にこだまする。やって来たのは、ロヴィーナとアントーニョとフランシスだった。
 人前で肩を抱くポーズをしているのは恥ずかしいので、手を握ることにした。それでもまだ恥ずかしいが、とにかく少しでもふれて彼女の緊張を和らげたかった。
「今日なんだろ。……爺ちゃんにお前らのこと話すの」
 うん、と答える声は消えてしまいそうなほど小さい。一瞬、動揺したように身体をすくませたのが感じられた。
「不安かもしれないけど、お前たちが真剣なら、爺ちゃんもわかってくれる」
「俺らんときも社長はなんだかんだで許してくれたし、フェリちゃんたちも大丈夫や」
 経験者たちの言葉ならではの説得力がある。彼女の表情に明るさが戻りはじめた。自分が元気づけたいと思っていたので多少は悔しいが、個人的な都合より彼女のコンディションの方が重要だ。
 フランシスはフェリシアーナの頭をなでて、いつものように話しかける。
「社長が反対しても恨まないでやれよ。お前が心配だから口うるさくなるんだと思えば、お小言も可愛いもんだよ」
「そう、かな」
「手塩にかけた愛娘をかっさらった立場からの意見だぜ? 信憑性があるだろ?」
 茶目っ気たっぷりにフランシスがウィンクして見せる。くすりと彼女が微笑んだ。気持ちがだいぶ安定してきたようで安心した。ふるえも、完全になくなったわけではないが落ち着いてきている。
 そのためにロヴィーナたちは来たのだとようやく気づいた。三年近くすれ違っていた彼らを、さりげなく支えてくれたことを思い出すと胸が熱くなる。
 ロヴィーナに疎まれていることは知っていた。にらみつけられたりあからさまに邪険にされたりしたことも一度や二度ではない。だが、最近は態度が変化しつつある気がする。遠回しに、姉の立場から力を貸してくれているように思えることがある。
 アントーニョは相変わらずマイペースだ。本人としては応援しているつもりのはずの言動がからかっているように感じられて困惑することもあるが、基本的に人情にあつい男なので裏を読む必要はないし、助けられたこともある。
 フランシスもアントーニョと同じく後押しをしてくれるが、耳が痛い忠告もついてくる。思い出してみれば、最初の一週間のときにあれこれとアドバイスをくれたのもこの男だ。それに、再び彼をボディーガードにしたいという彼女の気持ちをすんなり受け入れたらしい。もしかしたら一番の功績者かもしれない。
「みんな、ありがとう」
 そう言った彼女に続いて頭を下げた。
 もし一人であれこれと悩んでいたら、自分を見失っていたことだろう。厳しい叱咤や、やさしい軽口、真剣な助言がなければ、今こうして彼女にふれていることはあり得なかった。
「絶対、いい知らせを持って戻ってくるね」
 タイミングよくエレベーターが到着した。彼女と顔を見合わせ、乗りこむ。最上階のボタンを押すと、ゆるゆるとドアが閉まる。
「ルートヴィッヒ!」
 縮まっていくドアのすき間に挟みこむようにロヴィーナが叫んだ。
「お前がしっかりしないと、フェリシアーナも――」
 その先は聞くことができなかった。ドアは完全に閉ざされ、一瞬の浮遊感のあと、上昇をはじめる。
 最後まで知ることはできなかったが、ロヴィーナがなにを言おうとしたのかはよくわかっていた。
 ――フェリシアーナが頼りにできるのは俺の気持ちだ。
 相手が祖父でも、大事な話をするというのは緊張するし不安になる。さらにその内容が交際を認めてもらうためのものなら、なおさら二人の結びつきの強さが大事になる。
 だから、揺らいではいけない。ひたむきにフェリシアーナを想い続ける。たとえどんな代償を払っても、必ず目的を果たす。
 スーツの内側の左ポケットに入っているものの感触を、上からさわって確かめた。その重要性を考えると、気持ちが引き締まる。
 エレベーターはやがて最上階に到着した。ひっそりと静まり返って彼ら以外には誰もいないエレベーターホールに、二人の足音がいやに響く。壁の時計を見ると、約束の時間までもう少し余裕があった。
 さっきほぐれたはずの緊張がまたぶり返してきたのか、彼女はひきつった顔をしている。今にも泣きそうに見えた。
「フェリシアーナ」
「ルーイ」
 彼を安心させようと思ったのか、無理やり笑おうとするのが堪(たま)らない。あふれる感情の命じるまま、抱きしめた。
 何度抱きしめても、彼女が小さくてかよわいことに驚いてしまう。そして何度でも、守りたい、と思う。
「すきだ」
「……私も、すき」
 腕をゆるめると見つめ合える距離ができる。彼女の目に、安心と信頼が宿っているのがわかる。きっと自分も同じなのだろう。
 細い腕が首に回り、つま先立ちになった彼女の顔が近づく。高さを合わせるようにかがむと、まぶたが閉じられた。

「座れ」
 いきなりそう言われて面食らった。社長自身はすでにソファーに腰を下ろしている。フェリシアーナは彼の出方をうかがっているようだ。
「私は立ったままでいます。……私にかまわずお座りください」
「私も、ルーイが立ってるなら立つよ」
 聞こえよがしのため息が響いた。
「俺はもうトシだからずっと見上げてるのはキツいんだよ。それも一分二分の話じゃねぇんだろ? 顔に書いてあるぜ」
 それでもためらっていると、今度は舌打ちされた。
「社長命令だ。いいから座れ。お前みたいなひよっこに見下ろされるほど老いぼれちゃいねぇよ」
「ルーイ、座ろ」
「……わかりました」
 社長の真正面のソファーにこわごわ腰を下ろす。彼女はごく自然に隣に座ろうとした。
「フェリシアーナ、お前はこっちだ」
 指差したのは、向かい合う彼と社長の垂直側のソファーだ。どうしよう、と表情で訊ねられ、社長の言う通りに、と目の動きで答えた。
 三人の位置は、ちょうど「コ」の形になった。彼女は彼と社長を忙しなく見比べている。
 社長はすでに彼らの用件を知っているのかもしれない。だから、彼女をあの席にしたのだろうか。男二人のやり取りに口を挟みづらくするために。
 もしそうなら、……感謝する。彼女は当事者だが、こういった場に巻きこむつもりはなかった。だから、ちょっとした仲間外れになるこの場所は都合がいい。
 秘書が三人分のコーヒーを持って入ってきた。いつもなら軽口を叩く社長も、今日はしない。秘書が社長室を出るといよいよ空気の密度が濃くなった気がした。
「で、なんの用だ」
 社長がコーヒーに入れる砂糖やミルクの量はいつもより少ない。真面目に話を聞こうとするのが態度に表れていて、急に緊張が強くなった。
「フェリシアーナさんと交際していることを報告に参りました」
 座る座らないの問答で硬化しつつあった空気が、決定的に硬直した。
 胃をきりきりと締め上げられるような緊張と心配で、つばを飲みこむことすらできない。社長がコーヒーカップをソーサーに置く音にすら、ぎくりとしてしまった。
「俺は、お前をフェリシアーナの恋人にするためにボディーガードに任命したんじゃねぇぞ」
「……わかっています」
 何度も自分にそう言い聞かせて、自分の気持ちを押し殺してきた。むしろ立場を理由に逃げてきた。真剣に自分や彼女に向き合うことを避けてきた。
 だが、その臆病さが彼女を傷つけたことを思い知ったとき、もう逃げ続けるのはやめようと決めた。今まで言いわけをしたり否定したりしてきたものに向き合う勇気をくれたのは、皮肉にも、そう扱われてきた彼女への想いだった。
 痛みもともなっていた感情は、ちゃんと受け入れることができた。そして今度は、彼女と出会うきっかけをくれた自分の立場に向き合うときだ。
「どの面下げて来やがった」
「社長が私になにを求めて私を任命なさったのか、理解しています。その信頼を裏切りたくないと思いました」
 社長はルートヴィッヒとフェリシアーナを交互に見た。彼女に視線をちらりと向けると、はらはらした表情で社長を見つめている。
「お前、いくつだ」
 唐突な質問に戸惑いながら答える。すると、社長は唇の端をゆがませた。それは明らかに嘲笑だった。
「フェリシアーナは最近十九になったばかりだ。成人すらしてない世間知らずの社長令嬢をたぶらかしてのぼせ上がらせて、さぞかし愉快だろうな」
 返す言葉がなく、黙りこんだ。図星だからではない。怒りのためだ。
 社長から見ればそう映るだろうということは予想していた。それでも、実際に言われるとひどく腹が立った。
 たぶらかしたつもりなどない。心から彼女を愛している。そのために覚悟も決めてきた。左胸にふれて、確かめる。
「ルーイはそんな人じゃない!」
 彼女がそう叫び、怒りもあらわに社長をにらみつけた。そんな表情を見るのははじめてだ。
「私、遊ばれてなんかない。ルーイはすごく真面目に、私のこと愛してくれてる」
「演技かもしれねぇぞ」
「ルーイはそんなことできないよ。やさしいのに不器用で、嘘がつけない人だもん。それに、爺ちゃんに報告したいって最初に言ったのはルーイだよ」
 ふん、と鼻を鳴らし、社長は彼を見た。
「フェリシアーナを同席させたのも策略のうちか?」
「違うよ! 私が行きたいって言ったんだよ! ルーイは反対したけど、私だって当事者だから、……来たの」
 彼女が泣きそうになっているのが声の調子でわかった。社長が理解してくれないのがよほど歯がゆいのだろう。隣にいれば、手を握ったりすることもできるのだが。
「手のこんだことしやがって」
「信じてよ、爺ちゃん!」
「誠意が見えねぇよ」
「わかりました」
 左の内ポケットにしまっていたものを、取り出した。
「受け取ってください」
「ルーイ、これ……、そんな……!」
 覚悟は決めてきた。どんな代償を払っても、彼女を愛し続ける。
 社長はあきれ顔で彼が差し出したものをつまみ上げた。白い封筒にはこう表書きされている――「退職願」。
「辞めるなんて、私、聞いてない! 考え直してよ、ルーイ」
 フェリシアーナはソファーから立ち上がり、ルートヴィッヒの手を取った。鼻は赤く染まり、瞳がうるんでいく。
「お願い……そばにいて」
 痛いくらいの力をこめて手を握りしめられる。まるで逃がすまいとするようだ。握り返すと、瞳が揺れた。
「辞めたら堂々と手が出せるって魂胆か」
「違います。社員でなくなっても、私は何度でもお許しをいただきに参ります。貴方は、フェリシアーナの祖父なのですから」
「……」
 社長は虚を突かれた表情になった。すぐに険しい表情に戻り、彼をまっすぐに見る。逃げずに受け止めた。
「お前が許しをもらいたいのは、『社長』か? それとも『祖父』か?」
「もちろん、『祖父』の方です」
「結婚の申込みかよ」
 かっと頬が熱くなった。彼女の視線が突き刺さる。手が先ほどまでとは違うニュアンスで握られる。
「フェリシアーナが、私を選んでくれるのなら」
「って、言ってるが、フェリシアーナはどうなんだ」
 訊ねられ、彼女は半身を祖父に向けた。照れくささに隠しきれない喜びと多少の困惑がにじんでいる。
「結婚、とか、まだちゃんと考えたことない」
 まだ言葉が続く余韻を残して、間があいた。
 彼女の、意志のような力が手に流れこむ。
「私、姉ちゃんも爺ちゃんも大好き。だけど、ルーイは少し違う、私の特別なんだ。そばにいるとうれしい。ものすごく真面目でときどき融通が利かなくて困っちゃうけど、やさしくて、私のこと守ってくれる」
 そして見せた笑顔は、まるで満開の花のようだった。
「ルーイとなら、私は幸せになれる。絶対」
 二人きりだったら全力で抱きしめていたかもしれない。だがかろうじて自分をいなし、立ち上がって最敬礼をした。
「お願いします」
「お願いします!」
 隣で彼女も頭を下げた。
「……」
 沈黙が落ちる。
 空気はまったく動かない。
 誰も身じろぎ一つしなかった。
「……あーあ」
 社長は深いため息をつき、頭をかきむしる。
「まるで俺が恋路をはばむ障害みたいな扱いだな」
「そんなつもりは」
「いいさ。こういう役回りは何度もやってる。社長やってると『いい人』ぶってらんねぇからな」
 不穏な台詞にぎくりとした。
 もし認めてもらえなかったら、と思考が悪い方向に流れだす。弱気になりそうになったが、拳を握って奮い立たせた。
 絶対にあきらめない。もう二度と、自分の臆病さのせいでフェリシアーナを傷つけたくない。
「この退職願は」
 見せびらかすように、ひらひらと封筒を振る。
「預かっとくぜ。フェリシアーナを泣かせるようなことがあったら、即刻クビにしてやる」
 え、とつぶやいたのは、おそらく彼女だったのだろう。いや、もしかしたら彼だったのかもしれない。
「なんだよ、二人ともぽかんとしやがって。せっかく認めてやったんだから、もっとうれしそうな顔しろ」
「いいの!?」
「いいもなにも、こいつ以上にお前のボディーガードにふさわしい奴はそうそういないだろ?」
「っ、うん! うん! 爺ちゃん大好き!」
 彼女は社長に抱きついた。まるで仔犬のようだ。そうだとしたら、千切れんばかりに尻尾を振っているに違いない。わしゃわしゃと頭をなでる社長の様子が、なおさらそのイメージを強める。
 しわに埋もれそうなほど目を細めていた社長が、ふいに物悲しげな顔になった。
「大きくなったな、フェリシアーナ」
「え? そう? 爺ちゃんに比べたらぜんぜん小さいよ」
「昔は膝に乗せられるくらいだったぞ」
「それは小学生のときの話だよー」
 おかしそうに笑うのを見ながら、社長はしんみりした調子でため息をついた。
「あんなに小さかったフェリシアーナも、もう十九歳か……。そりゃあ、恋くらいするよな。いつまでも爺ちゃんの可愛い孫じゃないのは、わかってたんだが」
 慈愛に満ちた眼差しが彼女に注がれる。彼女はくすぐったそうにやさしさを受け止めていた。
 微笑ましい光景だと思っていたが、社長の視線がこちらに向けられては話が変わってくる。厳しい目つきではないのだ。にやにやと面白そうな顔をしているから不安になるのである。
「最初に任命したときは青二才だったのが、いつの間にか口を赤くしてやがる」
 ――「口を赤く」?
 まさか。あわてて唇を手の甲でこする。あざやかなルージュには見覚えがあった。
「あっ……ごめんね」
 どうして彼女の口紅がついていたのかなど、考えるまでもない。さっと血の気が引いていく。社長は最初から気づいていたのだということに気づいて、今度は羞恥のあまり頬に血がのぼる。
「青くなったり赤くなったり、信号機かお前は」
「も、申しわけございません!」
「色男の勲章だな」
「……」
 返す言葉もない。しどろもどろになっていると、がははと豪快に社長が笑った。
「ま、俺の方がカッコいいけどな! な、フェリシアーナ」
「え? うーん……二人ともカッコいいよ!」

 手をつけないまま完全に冷めてしまったコーヒーをもう一度運んでもらい、フェリシアーナは今度こそ隣に座った。「遠慮なく飲め」と言われても、あのやりとりのあとでのどにものが通るはずがない。さすがにそんな度胸はない。
 いつもの量の砂糖とミルクをコーヒーに入れ、一口飲むと、再びしんみりした様子で社長が言った。
「俺は、ずっと悔やんでたんだ。お前とロヴィーナのこと」
「え? なにが? なんで?」
 彼女は心底意外そうな顔をする。彼も、社長が一体なにを後悔しているのかまったくわからなかった。
「お前が彼氏を連れてくるほど大きくなった今だから言えるんだけどな」
「だから、なんのこと?」
「わからないのか?」
「うん、ぜんぜん」
 社長は腕を組み、ソファーにもたれた。
「両親も祖母も亡くしたお前たちを、あのだだっぴろいだけの家に連れてきたくせになかなか帰れなかったことが、ずっと引っかかってた。さびしいこともあっただろ? ごめんな」
 彼女はすぐに答えなかった。横顔が、なにかを必死に考えていた。
「最初は、確かに、さびしいなって思うこともあったよ。だけど」
 ああ、と心の中で嘆息する。そして、彼女のなにが自分を惹きつけてやまないのか発見した。
 無邪気で、純粋だからだ。今彼女が浮かべている、心からの笑みそのもののように。
「もう、さびしくないよ。だって、爺ちゃんが私のこと想ってくれてるのは知ってるもん。きっと、姉ちゃんだって同じだよ」
 今にもしわと同化してしまいそうな目が濡れたように輝いたのを、はっきりと見た。
「……今夜は、俺とフェリシアーナとロヴィーナの三人で飯を食おう。久しぶりに爺ちゃんが作ってやる」
「うん!」
「機会があれば、カリエドとこいつも呼んで、五人で食うか」
「楽しみにしています」
「そのときは私が作るね!」
 彼女が顔をこちらに向けている間に、社長はさっと目をこすった。つられて感動していたが、それも長くは続かなかった。
「フェリシアーナ。最後にちょっと、男同士で話をしたいから、少し席を外してくれるか」
「え? うん、いいけど……」
 心配そうな眼差しが向けられる。祖父になにかされるのではないかと不安なようだ。それはこちらも同じだが、安心させるために小さくうなずいた。
 わかった、と彼女がうなずき返し、立ち上がる。何度も振り返りながら社長室をあとにした。
 残されたのは、男二人と重苦しい沈黙である。わざわざ彼女を追い出してまで話したがっている用件は大体想像がついて、頭が空回りする。
「飲まないのか? コーヒー」
「あ、……いただきます」
 砂糖やミルクを入れるのは気がひけて、ブラックのまま口をつけた。ずいぶんぬるくなってはいるが、それでも充分おいしいコーヒーだった。香りも素晴らしい。
「うまいだろ?」
「はい」
「だろ? あいつが淹れるコーヒーは最高なんだ。ディナーは何回誘っても断られるけどな」
「はあ……」
 饒舌さにのまれて緊張が緩んでしまいそうになる。だが、気を引き締めなければならない。社長が一筋縄でいく人間でないことはさっきのやり取りで明らかになっている。
 どんな角度からどんな質問が来てもうろたえないよう、身構える。そんな彼をまじまじとながめていた社長は、ふいににやりと笑った。
「もうヤったのか?」
 カップをソーサーに置こうとしたのに手元が狂った。こぼれることはないまでも、表面が大きく波打つ。
 やられた。真っ先にそう思った。どだい、彼ごときが老獪(ろうかい)な社長に敵うわけがなかったのだ。自分がまだまだ青二才だと思い知らされて、うなだれた。
「どうなんだ?」
 人差し指と中指の間から親指の先を出すようにして手を握る、上品と言えないジェスチャーをしてにやにやしているさまは、どうみてもただのエロ親父だった。先ほどまでの、貫禄に満ちていたり孫想いだったりしていた人物だとは思えない。
 フェリシアーナとはじめて出会ったときのことをなぜか思い出し、その理由に思い当たって脱力した。
 似ているのだ、この祖父と孫娘の二人は。人をからかったり困惑させたり、マイペースでゴーイングマイウェイで、予想もつかない言動をするところが、驚くほどそっくりだ。血は争えない。
「フェリシアーナ……さん、とは、清い交際をしております」
 まだ一線は越えていないが、未遂ながらも迫ってしまったことがある。後ろめたさのせいで声が小さくなった。
 それを見逃さず、追求がやってくる。
「本当にヤってないのか?」
「……していません」
 おそらくは必要なやりとりなのだろう。しかし恥ずかしい。彼女がいなくてよかった。
「それなら、せめてフェリシアーナが二十歳になるまでは辛抱してくれ」
 急に真面目な空気になる。自然に背筋が伸びた。
「注意しても万が一ってことがある。人生が変わっちまうかもしれない」
「……」
「あいつはまだ大学生なんだ。気を遣ってやってくれ」
「……はい」
 うなずく。社長は安心したように笑った。妙に既視感を覚えると思ったら、目元の下がり具合が彼女と同じだった。見たことはないが、おそらくロヴィーナも同じなのだろう。
「必ず幸せにしろ」
「わかりました」
 そして、もう、話すべきことは残っていなかった。
 暇(いとま)を告げて立ち上がると、同じく立ち上がった社長が右手を差し出した。反射的にこちらも右手を出すと、がっちり握られる。肉厚でたくましい手だった。
「一つ、大事なことを忘れてた」
「なんでしょう」
「一発ぶん殴らせろ」


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