海と誓約2



「失礼しました」
 社長室を出ると、すぐにフェリシアーナが寄ってきた。おそらく、彼が出てくるのをずっと待っていたのだろう。
「さっき、中からなんかすごい音したけどなにがあったの?」
「大丈夫だ」
 左頬を隠すように顔を向けたつもりだったが、すぐに気づかれた。
「ほっぺた腫れてるよ! もしかして、殴られたの?」
「大丈夫だ」
「そんなわけないよ! 私、爺ちゃんに文句言ってくる!」
 彼女はドアノブをつかむ。その手をつかんで引き止めた。
「いいんだ」
「なんで!?」
「社長の気持ちもわかる」
「だけど……」
「俺は平気だ」
 眉を寄せたが、不承不承といった様子でうなずいた。そろりと手を伸ばし、腫れている頬にふれる。痛みが走り、思わず顔をしかめた。びくりと手を引っこめる。
「痛い?」
「痛くない」
「嘘つき。こんなに赤くなってるのに。……ちょっと待ってて、なにか冷やすのもらってくる」
 彼女が行くまでもなく、有能な社長秘書が保冷剤を持ってやって来た。おそらくはこの展開が予想できたのだろう。……そういえば、アントーニョがロヴィーナとの交際を報告に行ったときも殴られたという話を聞いた覚えがある。
 頬を冷やしながら、ひとまず、エレベーターホールのベンチに座って一息つく。肩や首を回すと、ごりごりと音がした。よほど緊張していたんだな、と我ながら苦笑してしまう。
「爺ちゃんと、なにを話してたの?」
「……あー、それは」
 あの赤裸々なやり取りは、思い出すことさえためらわれる。言葉を濁してしまってもしょうがないと思う。だが、彼女にしてみれば不安をかき立てられただけだろう。
 心もとなさそうな表情は、なんとかしてやりたくなる。それにいつかは話さなければならない内容だ。
「社長は俺に、その、お前が二十歳になるまでは」
「私が二十歳になるまでは?」
「だから、……手を出すな、と。そうおっしゃっていた」
「キスとかしちゃダメってこと?」
 思わずため息が出た。投げやりな気持ちがわき上がってきて、勢い任せに言った。
「身体の関係を持つなということだ」
「え……そ、そうなんだ」
 ようやく伝わったようだ。耳まで赤くなって恥ずかしそうに身をすくめる彼女はひたすら可愛かった。
 しかし、すねたように唇をとがらせ、ぽそりとつぶやく。
「なんで爺ちゃんがそんなこと……」
「お前が大学生だからだ」
「でも、私のお友だちには、高校生でしてる人いるよ。早い子だと中学生とか」
「そうじゃない。……社長が心配しているのは、お前が妊娠することだ」
 びくりと小さな身体が揺れた。戸惑いを帯びて瞳が揺れる。手のひらがそろりと腹部を包んだ。
「そっか……」
 社長からどれほど大事にされているのか、彼女には伝わっているはずだ。想い合う家族の光景が、微笑ましくてあたたかい。だが同時に、不安にもなった。
 彼女は愛されることも愛することも知っている。朴念仁だった彼まで惹きつけるほどの魅力にあふれている。そのため、愛情とはごく自然に与えられるものという感覚があるようだ。彼女を見ているとそう感じることがある。求めることにも与えることにも抵抗がない。だからこそ失うことをおそれている。
 対する彼自身はというと、少々おぼつかないものがある。ときどき鬱陶しく感じるほど、兄は彼を全力で可愛がってくれた。彼女と社長と同じように、強い絆があると思う。だが、家族愛と恋愛は違う。
 家族や友人とは明確に分かたれた領域で、誰かと心を交えるのははじめてだ。だから、勝手がよくわからない。それでも、愛されることに関しては戸惑いながらもだんだん慣れてきた。
 だが、愛することは下手くそだ。自分の気持ちをうまく伝えられない。どうにか形になったと思えば、今度は暴走して人目や理性を忘れてしまう。いつかは彼女を傷つけてしまうかもしれない。そんな自分に、不信が残る。
「ルーイ、後悔してない?」
 意味がまったくわからない。無言で続きをうながす。彼女はためらいがちに、ゆっくりと言った。
「だって、私と付き合ってるから、爺ちゃんに会ったり殴られたりしなくちゃいけなくなったんだよ? 会社だって、辞めさせられちゃうかもしれないのに」
「大したことじゃない」
 必要なことだと思ったから、そうした。それだけのことだ。彼女に非はない。ましてや後悔などあるわけがない。
「どんな犠牲や代償でも払うと決めた」
「……だけど、私が二十歳になるまで、エッチなことできないんだよ? 割に合わないって、思わない?」
「思うわけがない」
 押し倒して寸前までしたことがあるのだから、そういう欲望があることは否定しない。だが、それだけが目的で彼女を愛しているのではない。ただ、自力で抑圧するのは難しい。
 ふいに、天啓がひらめいた。
「社長は、俺に、理由を与えたのかもしれない」
「え? どういうこと?」
 彼女は首をかしげた。
「俺が、規律に囚われる性格なのは知ってるな」
「うん。ルーイってすごくそういうのにこだわるよね」
「もしまた俺がお前を押し倒すようなことがあれば、そのとき、社長の言ったことが盾になってブレーキがかかるかもしれない」
 言いながら、詭弁(きべん)だとは気づいていた。性欲は人間の本能であるため、理性より優先される。彼女をいたわることも社長のこともなにもかも忘れて猛(たけ)ったのは、つい最近のことだ。
 だが、少しでも保証がほしかった。せめて、欲求に打ち勝とうとした自分がいたことだけは覚えておきたい。
「そんなに心配することないよ」
「俺は、自分があまり信頼できない」
「じゃあ、私がルーイを信じるよ」
 目が覚めたような気がした。彼女の瞳には疑いなど見つからない。そして言葉にも、嘘はないのだろう。
「フェリシアーナ」
 抱きしめると、背中に腕が回される。
 今までに幾度となく思ってきたことを、また改めて思った。――小さい。


 ドアがひらく。そして見えたのは、足早にエレベーターホールを行ったり来たりするロヴィーナと、そのあとをついて回るアントーニョだった。
「そんなそわそわしたって、なるようにしかならんてー。家で待っとる方がええんとちゃう?」
「べっ、別に、あいつらのこと気にしてるわけじゃねぇよ!」
 噛みつくように言うと、ロヴィーナは腕を組んだ。
「姉ちゃん! 兄ちゃん!」
 フェリシアーナが呼びかける。こちらに気づくと、ロヴィーナはハイヒールをつかつかと音高く鳴らして近づいてきた。眉をつり上げた形相はけわしい。だが、眼差しの奥には不安がこもっている。
「この馬鹿!」
「わっ。ご、ごめんね。……待っててくれたの?」
「え」
 ロヴィーナは我に返ったように目を見開いた。一瞬、失言を悔いた表情になったのをごまかすように目をそらし、ぼそぼそと言う。
「たまたま用があって、だからまだ時間があったから、ここでちょっと暇つぶししてただけだ」
 アントーニョがロヴィーナの後ろで、顔の前で手を左右に振った。「うそうそ」、とでも伝えたいのだろう。彼女がこらえきれないようにぷっと吹き出す。ロヴィーナは彼女の両頬をつまんだ。気まずさをごまかしたいのだろう。
「ふあっ」
「どうだったんだよ、このやろー」
「ひいひゃんひぇ、ははひとひゅーいふぁふきあふのふふしてふへひゅっへ」
「ふがふが言ってんじゃねぇ」
「ふぇー……」
 理不尽だ、と言いたげな顔をする。見かねて、ロヴィーナは怒るだろうとわかっていたが口を挟んだ。
「社長は、交際を認めてくださいました」
 彼女もうなずいた。
「そっか、爺ちゃん、許してくれたのか」
 ほっとしたように息をつく。頬をつまんでいた手を離し、赤くなっている箇所を手のひらでこすった。見る見るうちに鼻の頭が赤くなり、瞳がうるむ。二、三度大きく息を吐いて、ぎこちなく強ばった笑みを浮かべた。
「よかったな」
「うん! 姉ちゃんたちが励ましてくれたから、私、がんばれたよ。大好き!」
 フェリシアーナに抱きつかれ、ロヴィーナは目を丸くした。張り詰めていたものが切れたように顔から力が抜けて泣き笑いになる。そろりとやさしく妹の背中をなでる。
 社長と彼女を見ていたときのことを思い出した。それぞれにすれ違いがあっても強く想い合う家族。美しいと、思った。
「やっぱ、お前も殴られたんやな」
 アントーニョは自分まで痛そうな顔をした。痛みはあらかた引いたが、まだぼんやりと熱が残っている。ぬるくなりはじめている保冷剤を当て直す。
「フェリちゃん、怒っとったやろ?」
「ええ」
「せやろなー。ロヴィもマジ切れしてたもん」
 殴ると宣言してくれたのだから、まだ親切だと思う。歯を食いしばって衝撃に構えることができなかったら、殴られた弾みで唇を噛んでいただろう。もしそうなっていたら、もっとまずいことになっていたに違いない。全力で彼女を落ち着かせることになりそうだ。
 おそらく、社長に敵うことはないのだ。彼女の親代わりという意味でも、下ネタ親父という意味でも。
「フランシスがおったら見せてやりたかったわー」
「そういえば、いらっしゃらないですね」
「こっちにはちょい顔出しただけだったんやって。今はデパートの警備の方行っとる」
「そうですか」
 仕事が終わったころを見計らって、電話でもすることにしよう。フランシスのアドバイスは、ずばりと的を射ていた。そのお礼をしたい。
 どう報告しようかと文章を頭の中で組み立てていると、スーツのそでを軽く引っぱられた。
「帰ろ、ルーイ」
「ああ」
 彼女はロヴィーナに向かって言った。
「姉ちゃん、さっきも言ったけど、夕飯は爺ちゃんが作ってくれるから、食べて帰っちゃだめだよ?」
「わかってるって。お前もな」
「うん。じゃあね、二人とも」
「失礼します」
「夕飯に遅れるなよ」
「ほななー」


 そのまま自宅に帰るのだと思っていたが、フェリシアーナにそのつもりはなかったらしい。
「海が見たい」
「海?」
 突飛なことを言い出すのはいつものことだ。それにしても突然なので戸惑ってしまう。
「夕飯までには帰れるよね?」
「今からなら充分間に合う」
「なら、行こうよ」
 性急な口調だ。一体どうしたのかわからず、彼女を見つめる。赤くなりはじめた空の色が移ってしまったような頬をしていた。
 ね、と急かす目はまっすぐ彼を見つめている。なにか切羽つまった事情があるわけではなく、本当に行きたくてしょうがないのだろう。
「着くころには夜だ」
「それでもいいよ。だから、お願い」
「……わかった」
 彼女にはとことん甘い自分にあきれてしまう。だが、社長との話し合いで奮闘した彼女にはなにか楽しみがあってもいいだろう。
 考えてみるといつもそうやってこじつけている気がするが、今回ばかりは本当だ。
 今日は記憶に残る、特別な日になる。

 夜の海は、水面を知ることもできないほど暗い。ともすれば広い平原を前にしているように勘違いしそうだが、鼻をくすぐる潮の香と規則的な波の音が認識を引き戻す。
 フェリシアーナの白い横顔は闇に溶けこみそうになっていたが、頭の中で輪郭をなぞることはたやすかった。何度も見てきたし、よく知っている。
 ルーイ、とささやく声も、しっかり聞き分けた。
「海に来るのは、これで四度めだね」
「そうだな」
 はじめて彼女と過ごした三年前のあの夏の海が、記憶の中でさざめいた。
 彼の笑顔を見たくてしょうもないギャグを連発していた。あやういところを間一髪で防いだ。危険な状況だったことに気づいていなかった彼女に腹が立って、冷静になれずにきつく叱った。
 二度めは、彼女の合格祝い。まだ寒い時期だった。灰青の空と水面。「ボディーガード」の枠からあふれそうな感情を自覚したのはあれがはじめてだったかもしれない。だが、それをおそれて、行動には移せなかった。
 三度めは、映画の撮影。少しずつ大きくなっていく恋を直視しないようにあがいていた。「抱きしめて」とねだられたのに、応えることができなかった。
 そして、四度めの今は?
「ねぇ、ルーイ」
 潮風にもてあそばれる髪を押さえながら彼女は言った。
「いつか、海のそばの綺麗なところに遊びに行こうよ。二人きりで」
「できたらいいな」
「うん」
 期待を頬に乗せて彼女が笑う。ときめいてしまう心はいつまで経っても変わらない。
 ――いつから私のことすきだったの?
 以前のデートのときの彼女の質問がよみがえって、おかしな気持ちになる。どうしてこんなに簡単なことがわからなかったのだろう。
 ――そんなの、最初からだ。
「フェリシアーナ」
「ルーイ?」
 抱きしめると、小さく笑った。いやがる様子などない。むしろ、うれしそうに腕を背中に回すくらいだ。甘い香りが鼻をかすめると胸がしめつけられて、呼吸が苦しくなる。
 彼女を恐ろしく感じたことがあった。二人の距離がもどかしいくせに近づかれるとおびえた。突然暴れだした気持ちに戸惑うこともあった。抱きしめることもできなかった。当然のように思ったことをあわてて打ち消した。
 いつでも、都合のいい理屈に甘えて、自分の臆病さから目をそむけていた。錯覚だと否定して、思考を止めて逃げてきた。
 ――錯覚じゃない。俺はフェリシアーナを、愛している。
 そしてそれは今日、権利になり、義務になった。今は、愛することも愛されることも抱きしめることも、なにも後ろめたさを覚えることなく実行することができる。
 おそれていたのは、まさしくこの状況だ。大切な誰かのために、自分が変わってしまうのを避けようとしていた。
 前の自分が見たらなんと言うだろう。……そう考えて、胃が揺れるような奇妙さを感じた。だが、胸に感じるあたたかさがそれを一瞬にして消してしまう。
「すきだよ」
「俺も、お前が、」
 存在を確かめるように、腕に力をこめる。こんなに小さくて細くてかよわいのに、心をとらえて離さない。彼女のためにならなにも惜しくない。
 もし、前の自分が目の前に現れたら、今の自分を軽蔑するだろう。だが、きっと、許してくれるはずだ。同じ「自分」なのだから、ずっと、惹かれていたことは知っているだろう。
「すきだ」

「せっかく来たんだし、浜辺歩こうよ」
「ああ」
 念のため、先に階段を下りる。砂で靴底がじゃりじゃり音を立てた。少し滑りやすい。
 気をつけろよと言おうと振り返ったそのとき、「ひゃっ」と声がして、彼女の身体が大きく前にかしいだ。
「フェリシアーナ!」
 落ちてくる身体をしっかり抱きしめたのはいいが、勢いを流せずに、砂浜に尻もちをつく。やわらかな砂のおかげであまり痛みはない。膝の上にまたがるような体勢で、彼女はしっかりとしがみついている。
「大丈夫か?」
「私は平気。ルーイは?」
「俺も大丈夫だ」
「よかった。ごめんね」
「気にするな」
 頬を包む彼の手に添えられた彼女の手は、夜の闇の中でも白くたおやかだった。まつげの並びも、小さな鼻梁も、大きな瞳も、やわらかな唇も、彼女を為すパーツのすべてが愛しくてたまらない。
「綺麗になったな」
 つい、ぽろりと、そんな言葉が漏れる。言ったあとで自分でも驚いた。当然、彼女も意外そうな顔をしている。だが、照れくさそうに頬を染めた。
「ルーイのためだよ」
「え」
「恋をした女の子は綺麗になるんだから」
 聞き覚えがある。そう思って、フランシスがそう言っていたのだと思い出した。まだ彼女の気持ちを知らなかったときのことだ。……今ならわかる。あのときの自分は彼女に想われる男に嫉妬していた。「恋人」だったアルフレッドを気に食わなかったのもそのせいだ。
 指の腹でみずみずしい肌をなぞる。吸いつくようにしっとりとした手ざわりが残った。予想外の官能的な感触にぎくりとしてしまい、思わずつばを飲んだ。
 腕の中の彼女と目が合う。あわい光を帯びて、やさしげに輝いていた。まぶたを閉じるとそれはかき消えて、それから、ふわりとした唇のやわらかさが頬に。
「最初にキスしたの、ここだったよね」
「ああ」
「ずっと昔のことみたいに感じるのに、あのときの気持ちはよく思い出せるんだ。不思議」
「俺も同じだ」
 ずっと、忘れられなかった。頬に残されたぬくもりとささやきに長らく惑わされた。もう二度と会えないと知りながら期待を捨てきれずにいた。再会できたとき、まるで夢のようだと思った。
 まばたきをする。目の前の彼女は確かにそこにいた。膝の上の重みも、速度を増していく鼓動も、すべて本物だ。錯覚でも、夢でも、幻でもない。
「私、ルーイに会えてよかった」
「……俺もだ」
「ねえ、これからも守ってくれる?」
 この言葉を聞くのは、何度めだろう。
 いつでもその裏に隠れているのは純粋な信頼だと知っている。
 そして、自分がどう答えるべきなのかも。
「フェリシアーナ」
 息と息を近づける。至近距離で視線を絡ませ、何度も唇を重ねる。彼の胸に顔をうずめた彼女を抱きしめて、自分にも聞かせるように言った。
「俺は、お前のナイトだ」


[後編・完]


←前へ

↑「Your Knight」目次に戻る


11/06/28