彼の笑みを知らず



 ピロリロと、携帯が鳴っている。音からするとメールじゃなくて電話だ。寝ぼけまなこで通話ボタンを押して、耳に当てた。
「んー……もしもし?」
『おはようございます』
 あれ、と違和感が転がった。なんだろう、なんだか変。だけど一応返事をする。
「……おはよう」
『今なーんじだ?』
 面白そうな口調。一度携帯を耳から離して、ディスプレイに表示されている時間を見る。
 7:55。
 ……しちじ、ごじゅう――
「あーっ!」
 遅刻しちゃう!
 慌てて通話を切る。急いで制服に着替えて、一階のダイニングまで下りる。テーブルにあった朝食を三分で食べた。
 洗顔とかを手短に済ませる。かばんを引っつかんで玄関に出た。門に横付けされた車に駆け寄る。
「ごめんねルー、イ……」
「フェリシアーナは相変わらずお寝坊さんだな」
 待っていたのは、ルーイじゃなくて、フランシス兄ちゃんだった。時間がないのに、その場で立ち止まってしまう。
「なんだよ、ひさびさに会うのに変な顔して」
 ああ、そっか。
 彼が私のボディーガードなのは一週間だけで、今日からはまた元に戻るんだった。
 なんとなく複雑な気持ちになりながら、荷物の確認をして車に乗りこんだ。忘れ物はなかった。すごくびっくりされて、それから頭をなでてもらった。
 これがルーイならもっとよかったのに。
「一週間の始まりだっていうのに、元気ないな」
 運転しながらフランシス兄ちゃんが言う。そんなことないよ、わざとらしいくらい明るく答えた。元気ならいつだってある。
「家族は元気?」
 その話題を出すと、フランシス兄ちゃんは相好を崩した。デレデレしながら、いかにジャンヌさんと赤ちゃんが可愛いか語る。
「もうさ、たまらないくらいちっちゃいんだよ。だけど手とかぎゅーっと握ってくるわけ。すごいよな、感動するよな、ぐっとくるよな」
 話を聞いてるだけで、幸せな気持ちになる。
 こんなに大切にされて、想われて、二人がうらやましい。私の両親はもういないからか、余計にそう思う。きっと、私と姉ちゃんもこんな風に愛されてたんだ。
「いいパパやってるんだね」
「当たり前だろ、親父さんに頭下げて嫁にもらったんだから」
「殴られたんだっけ?」
「そうそう。『貴様に娘はやれん!』ってリアルで言う人いるんだ、って感動してた矢先に」
 でも、当時のフランシス兄ちゃんは不良だったんでしょ? そりゃあ誰だってあげたくないに決まってるよ。
 他愛ない話をしながら、ふと気づく。
 ――ルーイとはこんな話、したことない。
 用事があるか、私が話しかけない限り、彼は口を開かなかった。その会話でさえ、用件を満たせば短く切り上げられてしまう。
 ルーイはいつだって隙がなくて、堅くて、真面目で。……笑った顔を、見たことがない。しかめ面か、困った顔しか知らない。
 一週間も一緒にいたのに。知ってることよりも、知らないことが多すぎる。
 気づかなければそのままにできた。だけど気づいてしまうと、気にせずにはいられない。
 胸がもやもやして、月曜日から気分が悪かった。


 時間が経てば、このもやは消えてしまうんだと思っていた。
 そんなことない。それどころか、逆にどんどん濃くなっていく。
 本田さんが、エリザベータさんが、ティナ先生が、ふとしたときにルーイの話題を出すと心がザワザワして苦しい。
 もう、会えない人なのに。
 「またね」って、最後の夜、頬にキスをした。あの時は本当に純粋に、機会があればまた会えるんだと思っていたからそう言った。だけど。
 ボディーガードでない彼と、ただの女子高生の私に、接点はなんにもない。モーニングコールをくれた携帯は会社のものだから、連絡先さえ分からない。
 彼のことは、フランシス兄ちゃんやアントーニョ兄ちゃんから間接的に「元気そうだよ」と聞かされて、それだけ。
 「またね」。
 何気ないその言葉が、魚の骨みたいに喉に突き刺さって、ことあるごとにちくちく痛む。自分で自分の言葉に苦しめられる。
 なんでこんな気持ちになるんだろう。彼といた一週間は毎日すごく楽しかったのに、思い出すとなんだか哀しい。
 ルーイなら、この気持ちの理由を知ってるのかな。もし分かるんなら、塾からの帰りに階段で守ってくれたみたいに、助けてくれたらいいのに。
 ねえ、私のナイトさん。
 ……会い方すら分からない、遠い人。


 バレエ教室に行ったのは、足をくじいてから一ヶ月後だった。大丈夫だって言ってるのに、やたら心配されてかなりの余裕を取らされたせいだ。爺ちゃんはときどき過保護になる。
 久しぶりだけどいつも通りで、なんとなく懐かしい。トゥーシューズを履いていると、フェリが駆け寄ってきた。
「こっちじゃ久しぶりじゃね? なにかあったん?」
 捻挫のことは学校の誰にも言ってない。もちろんフェリにも。だから適当にごまかした。あっさりだまされてくれて、嬉しいような、申し訳ないような。
「久しぶりだね、フェリシアーナさん」
 いつの間にか来ていたイヴァン先生が微笑みながら言った。先生は大柄でがっしりしてるけど、お姉さんや妹と一緒に踊るとなんだか絵画みたいに繊細な動きをする。
 まあ、ミスをするとすごく怖いんだけど(そんな目に遭うのは大体決まってる)。
「ヴェー、お久しぶりです。休みすぎちゃってごめんなさい」
「ううん、元気そうならよかった。レッスンにはついて来れる?」
「ウチがついてるから大丈夫だしー」
 答えたのは私じゃなくてフェリだった。まあそのつもりだったんだけど。
 そっか、と先生はうなずいた。そして、数少ない男子の生徒のライヴィスとエドァルドとトーリスのところに向かった。
 準備体操と柔軟をして、フェリに教わりながら久しぶりにつま先立ちをした。上からつまみ上げられているような、スッとした立ち方を意識する。集中、集中。
 腕を広げて、くるりと回る。久しぶりで身体がなまっていた。筋が伸びてく感じは痛いけど気持ちいい。
 勘を取り戻しかけたころ、休憩を告げられた。鏡の前で座って、水を飲む。
 先生のお姉さんがバイイーンと胸から怪音を出しながら飴を配っていて、私もおこぼれに預かった。
 口の中がじんわりと甘い。妹から逃げる先生をぼんやり眺めて、なぜかため息が出た。
「フェリ、辛気くさいしー」
「あ、ごめん」
「気にせんでいいし。でも、なにかあったんなら、言ってほしいんよ」
 真っ先にルーイのことが浮かんだ。笑顔を想像しようとしたけど、うまくいかない。無理に笑う顔は似合わない。
 誰かを思い出すならその人の笑顔と幸せな気持ちがいいのに、イメージの彼は仏頂面で、沸き上がる気持ちは幸せというよりも困惑に近い。
「離れたのに、ずっと気になる人がいるんだ」
 口に出すと本当に遠い人に感じて、胸が詰まった。お兄ちゃんみたいな、お父さんみたいな、やさしくて強いあの人。
「だけど、その人のことはなんにも分からなくて、それなのに気になってしょうがなくて……困る」
「じゃあまた会えばいいと思うんよ」
「そうできるなら、そうしてるんだけど」
 だけど、そのためにはボディーガードを変えなくちゃいけない。
 こんなワガママ、許されていいのかな。ルーイには「お嬢様」って呼ばれたけど、本当にお嬢様みたいなことは言いたくないし、したくない。色んな人に迷惑がかかるって、分かりきってるのに。
「悩んでもしょうがないしー」
「そう……、だね」
 小さくなっていた飴を噛み砕く。欠片が星空みたいに口の中に広がる。

 バレエ教室からの帰り、ステアリングを握るフランシス兄ちゃんの指を見つめた。しっかりした指は節があまり目立たない。子どもを抱っこしやすそうな、温かな手。
 ルーイの指は、ごつごつして、筋張っていて、太くて、どことなく不器用そうで。
 だけどハンカチで私の涙を拭いたり、湿布を貼ったり、懐中電灯で足元を照らしたりしてくれる。
「兄ちゃん」
「ん?」
「お願いが……あって」
 兄ちゃんは無言で続きを促した。心臓がはらはらする。
 やめようかな。でも、私は。
「ボディーガードのことなんだけど」
「うん」
「兄ちゃんじゃ、なくて」
「うん」
 息を吸いこんだ。口に出したらもう取り消せない。いいんだよね、と自分に確認した。
「ルーイに……変えたいんだ」
「そうか」
 静かに、なんでもないことのように、兄ちゃんは私のワガママを受け入れてくれた。
 涙がこぼれる。声が喉で詰まった。
「兄ちゃんのことは、大好きなんだよ」
「うん」
「だけど、私は、」
 息を整えて。心からの思いを、胸から口へ。
「……ルーイに、会いたい」
 迷惑をかけることも、ワガママだっていうことも、分かってる。きっと真面目な彼がこのことを知ったらすごく軽蔑される。それでもいい。
 ルーイ。会いたい。
「ごめんなさい……ずっと守ってくれてたのに」
 車はわき道に逸れて一時停止した。運転席から振り返った兄ちゃんは私の頭をなでる。
 兄ちゃんだってやさしくて強いし、金髪で青い瞳なのに、どうしてルーイじゃなきゃダメなんだろう。
 答えは出せなくて、しゃくりながら謝り続けた。
「ごめんなさい」
「いいんだよ、気にすんな」
 口調はお父さんみたいだ。おおらかに、すべてを包んでくれるような。指が髪に絡んでこそばゆい。
「おかげで時間がたっぷり空くし、その分、妻と子どもに愛を注ぐさ」
 ウィンクなんてするから、つられて笑ってしまう。改めて、兄ちゃんはすごい人だな、って思った。
「あいつと仲よくしろよ」
「うん……」


 そうして私が彼に再会するのは、もう少しあとのこと。
 笑顔を知るのはもっと先の話。


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09/06/25