一日め
彼の勤める警備会社の社長は、一代で会社を大きくした。昔は自身が護衛をしていたこともあるため、老年になった今でもがっちりした体格を保っている。社員たちへの理解もあるので、慕う者は多い。
そして、社長は双子の孫たちを目にいれても痛くないほどに可愛がっているともっぱらの噂だった。孫のどちらかと結婚した男が次の社長だ、という流言がまことしやかに囁かれている。
それに関連してもう一つある。孫の護衛にした男は婿候補、というものだ。
護衛と依頼人は自然と一緒にいる時間が長くなる。そのまま恋に落ちる者も、決していないわけではない。
そう言ってはやしたてる同僚たちを、彼は軽く受け流した。野心はあるが、社長の椅子まで望んでいない。それにビジネスとプライベートはきっちり線引きする彼に取って、依頼人と恋仲などあり得ないことだった。
おまけに向こうは高校生だ。そういう対象として見ることは、倫理的に問題がありすぎる。
一週間の始まりの朝、彼は早めに社長の邸宅に着いた。高級住宅街の中でも、抜きんでて大きい。しかしながらうまく周りと調和する絶妙なバランス感がある。あの社長らしい家だ、とひそかに感嘆する。
彼の仕事は、朝は車で高校に連れていき、授業中は待機、放課後迎えに行き稽古事に行かせる、というもので、待機の時間がほとんどだ。
ちなみに双子の孫たちのうち、彼がつくのは妹だ。姉には彼の先輩がついていて、部活の朝練で先に家を出ている。
ちらっと腕時計に目を落とす。そろそろ出なければ遅刻になるかもしれない。待っているとけたたましく玄関ドアが開いた。
出てきたのは制服に身を包んだ少女だった。スカートのプリーツを乱し、ポニーテールを揺らし、転がり跳ねるようにやってくる。
まさか、と思っていると、彼女はルートヴィッヒの前で立ち止まった。
――まさか、この少女が?
「おはよう!」
「おはようございます……」
少女はウェーブがかった栗色の髪を一つに結わえていた。背は小柄で頭の先は彼の肩くらいにある。
琥珀の瞳で興味深そうに見上げてくる。その年ごろの少女らしい、純真で曇りのない目をしていた。
「はじめまして、私の新しいボディーガードさんだよね」
屈託のない口調が彼の疑念を肯定する。
イメージしていた「深窓の令嬢」とはかけ離れていたが、なぜか、さすがあの社長の孫だ、と感心してしまった。一本だけ出たくせ毛を除くとしても、全体的な雰囲気やノリがそっくりだ。
いや、感心している場合ではない。彼女が遅刻してしまう。
黒塗り高級車の後部座席のドアを開けると、彼女は素直に乗った。ドアを閉め、運転席に乗りこむ。自分も彼女もシートベルトをしているのを確かめて、発車した。
彼女は我慢できない、と言わんばかりに、好奇心旺盛に口を開いた。
「まだ名前聞いてなかったや。名前、なんていうの?」
「ルートヴィッヒです」
「私はフェリシアーナ。ね、『ルーイ』って呼んでもいい?」
若さに溢れた積極性にたじろぐ。
彼は距離を置いて人付き合いをしたいタイプだった。相手に踏みこまれたくないし、踏みこもうとも思わない。
「……お好きにどうぞ」
「やった」
嬉しそうな笑顔をルームミラー越しに見て、すぐに前方に視線を戻す。道路はこの時間帯にしては比較的空いていた。急げば間に合う。ギリギリまでアクセルを踏んだ。
「ねえ、ルーイ」
「なんでしょう、お嬢様」
「『お嬢様』はやめてよ、なんか変な感じ。『フェリ』でいいよ」
「できません」
短く言うと、口をとがらせる。動作が高校生とは思えないほどに幼い。
「固いなあ」
そう言われても、これが彼の性分なのだから仕方ない。直せるものならとうに直している。
「ところで、何のご用ですか」
もうすぐ彼女の通う女子高に到着する。遅刻は免れそうだ。
「うん、カバン忘れちゃったからお家に戻って」
「……分かりました」
結局、初日早々から遅刻した。
彼女が授業を受けているとき、彼には特にすることがない。
しかし急用や急病に備えなくてはならないので、居眠りなど厳禁である。許されていたとしても彼はそんなことをしない男ではあったが。
それでも暇なものは暇だ。そう思っていると、会社から渡された携帯電話が鳴り出した。
すわ一大事かと取ってみれば、
『やっほー、俺俺、フランシスだよ』
相手は前任者のフランシスだ。あの流言に従うなら婿候補だが、この男は妻帯者だった(だから彼をからかう同僚たちは熱心になったのだ)。
今は妻の出産で一週間の休暇を取っている。あの社長はこういう事情ならあっさりと休ませる。
『そりゃ災難だったな』
今朝の出来事を話すと、快活な笑い声が携帯からもれる。ため息をこらえながら口を開いた。
「先輩はどうしていたんですか」
フランシスはいい加減に見えても仕事はきっちりやる男だ。コツをぜひ聞きたかった。
『簡単だよ、時間になったら電話で起こして、車に乗る前に忘れ物の確認。時間割のチェックを怠るなよ。制服のリボンはよく忘れるから注意しろ』
滔々とした言葉にめまいを覚える。まるで幼児ではないか。
「……明日は心がけます」
彼の声から内心を読み取ったのか、向こうは苦笑したようだ。
『仕方ないさ、彼女はよくも悪くも「お嬢様」なんだから。悪気はないんだ』
「それは分かっていますが」
分かってはいるが、いきなりの遅刻はかなり痛かった。社長からの叱責は確実だ。彼女を恨みに思うのはお門違いだろうか。
『ま、一週間なんてすぐだよ』
「はい」
一週間の辛抱か、と思いながら電話を切る。正直に言えば、待ち遠しくてたまらなかった。
放課後には授業を終えたばかりの彼女を車に乗せ、稽古事に送り届けた。
ちなみに月金は華道、火木はスイミング、水はピアノ、日はバレエだ。月から土は稽古事の他にも学習塾がある。
今日は月曜日なので華道だ。稽古場は閑静な住宅街にある、いかにもそれらしい邸宅だった。
木でできた門を開けると、玉砂利の敷き詰められた庭園が広がる。いにしえの時を凍りつかせたような光景は緊張を強いる。
風に揺れる松、玄関までの飛び石、威厳を放つ玄関、全てが計算ずくのようでありながら自然に調和している。
引き戸を叩いてしばらくすると、カラカラと軽い音で戸がすべる。現れたのは十代半ばごろの少年だった。フェリシアーナが挨拶をすれば、大きくうなずく。
「ついてくるんだぜ!」
家に上がり、チョッチョルーと鼻唄を歌う少年を追う。
どこからか涼やかな楽器の音が聞こえる。何気なく見た庭には小さな池があった。鯉が数匹泳いでいる。
歩くにつれて音が大きくなる。「ここなんだぜ」と少年がふすまを開けると、楽の音が溢れた。
肩をおおう黒髪を持つ少女が琴をつまびき、やや長髪の少年が鼓を打ち、長髪の男が笛を構え、着物を着た青年が三味線を抱いていた。
入って来た三人に気づき、三味線の青年が手をあげる。演奏がぴたりと止まった。
「続きは今度」との言葉に、青年以外は楽器を持って退出する。琴はルートヴィッヒたちを案内した少年が片づけを手伝っていた。
「お待たせしましたね、フェリシアーナさん」
「素敵な演奏だったよー」
「ありがとうございます。……そちらの方は?」
黒い瞳が彼を見る。吸いこまれそうな色だと思った。
「一週間、護衛を務めるルートヴィッヒです」
「私は華道の師範の本田菊です。よろしくお願いします」
頭を下げられ、慌ててそれにならう。相手には特に威圧的な様子はないのに気後れしてしまう。
「準備をして、始めましょう」
特にすることもないので、ぼんやりと窓の外をながめる。はさみの音が広い室内に響く。
「空間との調和を――」
「花自体の風合いを生かして――」
時たまの穏やかな声が、散漫になる意識を引き締める。静かに流れる時間は眠気を誘う。
華道の後は学習塾に向かった。
塾は部外者立入禁止のため、車で待機することになる。暇を持て余す苦痛は身にしみて学んでいたので、その時間で今日の日誌をつけることにした。
日付の後に今日の曜日を書き、記憶を探りながら朝からのことを記録する。遅刻が思い出されて、彼はため息をついた。明日の叱責は決定事項だろう。
気持ちが重たい。この調子で一週間も続けるなど、本当にできるのだろうか。
――それでもやるしかない。
自分に言い聞かせる。一週間だ。とにかくやり抜けば立派なステータスになる。そう割り切ればいい。割り切るしかない。
そうは思うが、疲労は肩に重くのしかかった。
まだ彼の一週間は始まったばかりだというのに。
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09/05/11