二日め



 目の前の重厚な扉をノックする。すぐに返事があった。
「失礼します」
 扉を開ける。巨大な窓から、彼の心のように曇り気味の空がのぞく。窓際に男が立ち、彼に振り返っていた。社長だ。
「どうだ、一日やってみて」
 疲れました、とは素直に言えず、言葉を濁す。悩んで、かなりぼかした表現をした。
「お孫さんは、その……とても個性的な方ですね」
 すると社長は豪快に笑う。笑い方がフェリシアーナによく似ていた。しかしいきなり笑い止むと険しい顔を作る。
 来るぞ、と身構える。
 昨日の遅刻について叱責されるのは覚悟していた。減給程度で済めばいいが、下手をするとクビかもしれない。殴られる可能性も考え、歯を食いしばる。
「孫のことだが」
 やっぱり。
 先に謝る方が得策かもしれない。
「申しわ――」
「どんなにかわいくても手を出すなよ! 俺より格下の男には絶対に嫁にはやらん!」
「……は?」
 言われたことをうまく咀嚼できずにまばたく。耳が壊れたのかと思ったが、自分の間抜けな声もちゃんと聞こえたので、そうではないらしい。
 彼の反応や混乱など意にも介さず、社長は握りこぶしまで作って熱弁をふるう。
「いいか、フェリシアーナとロヴィーナはいい子でかわいい、俺の孫だからな! たぶらかしたらクビにするぞ!」
「は、はぁ」
 社長が孫たちを猫可愛がりしているとは聞いていたが、これほどとは。会社の未来に一抹の不安を覚えたが、とりあえず相槌を打った。
「分かってるならいい。今日も頼んだぞ」
「はい」
 結局遅刻については一言もなかった。内心で首をかしげながら社長室を後にする。
 日誌には癖のある直筆サインがしっかりあるので、目を通していることは確かだ。それなのに何も言わないのは不自然ですらある。
 疑問は雲のように広がり、灰色に染まる。太陽は見えない。


 時計に目を落とし電話をかける。
 一回めと二回めは留守電になった。三回めは留守電に切り替わるギリギリでつながった。
『もしもし』
 あくびまじりの、眠気を隠さない声が聞こえてくる。
「おはようございます。ルートヴィッヒです。お嬢様、起きて支度してください」
『ん〜、今何時……』
 時間を告げると、やや間があり、『えっ』という焦った声。
『もうそんな時間?』
 その口調はしっかりとしている。目は覚めたらしい。
「はい。お急ぎください」
『分かった!』
 ブツン、と通話が終わり、待つこと数十分、彼女が姿を見せる。今日はカバンを持っていた。
「今日は体育がありますが、体育着はお持ちですか」
 彼は先輩の助言通りにメモを作っていた。作っている最中に何度も己の職業を確認した。
「大丈夫、入ってるよ」
「運動靴は」
「学校」
「リボンはどうしました」
「ちゃんとつけて、……忘れた!」
 慌ただしく家に入っていく。すぐに戻ってきた。胸元にはリボンがある。
「ごめん、行こう!」
「カバンはどうしました」
「あ」


 ガラス越しに、塩素のにおいが鼻をつく。水音が高い天井にこだまする。
 火曜日の稽古事はスイミングだった。一緒にプールに入るわけにはいかないので、二階のギャラリーで待機する。彼以外には誰もおらず、自販機が低い稼動音を立てている。
 彼女の姉のロヴィーナも同じスイミング教室に通っているが、他の稽古事との兼ね合いで曜日が違う。一緒になるのは木曜日だ。
 ちらりとプールに目をやると、彼女は白い肢体をのびのびと自在に動かして泳いでいた。波間にむき出しの腕や太ももが浮かんでは沈む。濡れた肌は鱗のごとくきらめいた。
 とてつもない背徳感を覚えて目をそらす。それだけでは足りずに背を向けた。あまり見すぎると精神衛生によろしくない。
 とりあえず落ち着くために、自販機からミネラルウォーターを買う。水が胃袋を冷やすのを感じた。深く息をついて、日誌を書こうと思いつく。
 あまり集中はできなかったが、それでも時間つぶしにはなった。終了時間が来たことを告げる甲高い笛の音にほっとする。中身の減らないペットボトルを持って一階に降りる。
「ルーイ!」
 元気よく手を振りながら彼女がやってくる。ゆるいウェーブの髪が濡れてストレートになっていた。下ろしているのを見るのは初めてなので見慣れず、なんだか奇妙な感じだ。
「今日はたくさん泳いだよー」
「お疲れ様です」
「喉渇いたー。それちょうだい」
 彼女はペットボトルを指差した。すっと奪い、さっさと口をつけてしまう。たおやかな喉が数回上下した。
 あんなに減らなかった水がどんどん飲みこまれる。ぷはー、と息をつくころには半分に減っていた。
「あの、……私の、飲みかけだったのですが」
「じゃあ間接キスだね」
 なんのこだわりもなく言われ、頬が熱くなる。赤らんだ顔を見られないようによそを向いた。


 十時を過ぎると、学習塾の昇降口から次々と人が吐き出される。
「ルーイ」
「お疲れ様です」
「ん、ちょっと疲れた」
 学習塾は大通りに面しているため、離れたところに駐車場がある。駐車場に行くには長い階段を下りなければならなかった。
 街灯が近くにないために足元は暗い。その上今夜は曇りで月明かりがない。階段に手すりがついていればまだよかったのだろうが、それすらない。夜目が利く彼ですら、降りるたびに次の段を探らねばならなかった。
 前をゆく彼女は特に警戒する様子はない。あまりの無防備さが不安になり、声をかける。
「お足元にご注意を――」
「ひゃあっ」
 目の前の身体ががくんと落ちる。とっさに引き寄せたが、そのせいで彼もバランスを崩してしまった。倒れながらも身体をねじり、彼女を上にする。
 同時に衝撃が背中を襲い、ぶつけながら滑り落ちた。意識が飛ばなかったのは奇跡かもしれない。
「ルーイ!」
 泣きそうな声が上から聞こえる。頬をなでられる。
「大丈夫? しっかりして!」
「大丈夫、です」
 身体を起こそうとしたが、彼女が乗っていてそれは叶わなかった。肩を押すと、気づいたのか上からどき、手を差し伸べる。それに甘えて身体を起こす。
 全身が痛い。結構ぶつけた。今日は風呂に入るのがツラいかもしれない。
「ごめんね」
 街灯に泣き顔がほの白く浮かぶ。痛みに顔をしかめそうになるのを根性で押さえた。余計な心配はさせたくない。
「本当にごめんなさい。私のせいで」
「これくらいなんともありません。それよりお嬢様はどうですか」
「私はおかげで無傷だけど、でも」
 濡れた頬がきらめく。ポケットを探ってハンカチを彼女に差し出した。彼女はいらない、と首を振る。
「お嬢様がご無事ならそれでいいのです」
「だけど」
 声はあまりにも弱々しい。
「身体をはってお嬢様をお守りするのが私の仕事です」
 ハンカチで頬をふく。嫌がる様子はない。あらかた拭き取ったとき、小さな声がした。
「ルーイって、ナイトみたい」
 幼いころに読んだ騎士道物語が頭をよぎる。何不自由なく育てられた美しい姫君と、彼女のためには命すら投げ出す騎士。
 けれど姫君ならもっとしとやかだろうし、騎士ならもっと二枚目な優男だ。
 そうは思ったが口に出さなかった。
「金髪で、青い目をしてて、やさしくて、強くて。ルーイは理想のナイトだね」
「ありがとうございます」
 反応に困って礼を言うと、彼女はふっと微笑む。涙を拭く彼の手にふれた。
「ねえ、これからも守ってくれる?」
「はい」
「約束だよ」
 うなずく。言われずとも、任ぜられた以上は全身全霊で警護するつもりだ。それがほんの一週間でも。
「車へ戻りましょう」
「うん」
 空に月はなく、星はまたたかない。明日はきっと雨だ。


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09/05/12