三日め
空から冷たく重い雨が落ちる。せせらぎに似た音が静かに街をつつむ。
タイムカードを押すためと日誌を取るために、彼は早朝から会社に来ている。今朝も社長に会ったが、やはり初日の遅刻については何も言われなかった。
その理由を知りたいが、やぶへびになりそうでためらってしまう。
「ルートヴィッヒ」
悩む彼に声をかけたのは先輩のヘラクレスだ。手には書類を数枚持っている。
「なんですか」
「昨日、階段から落ちたんだろう」
「ああ……はい」
思い出して眉が寄る。背中が自己主張のように痛んだ。
家に帰ってから見てみると、かなり打ち身の痕ができていた。シャワーを浴びるときにはうめき声をこらえなければならなかったし、寝るときはうつ伏せを余儀なくされた。
「それが?」
「これ、保険の書類。一応書いておけって」
差し出す書類を受け取る。この男は体力もあるが、かなり頭が回るため、デスクワークをこなすことも多い。本人はそれに異存はないらしい。
「分かりました」
書類を受け取り、中身にざっと目を通す。そんなに時間はかからないだろうから、待機中に書けばいいだろう。
「……あの」
「ん?」
「俺は社長の孫を遅刻させたのに何も言われなかったんですが……何か知ってますか?」
ヘラクレスはぼんやりとした態度からは想像もつかないほど、会社の内情に詳しい。もしかしたら、という期待をこめて尋ねてみた。
「ん……知ってる」
あっさりと肯定が来て、やや拍子抜けする。
「お孫さんが、社長にそう頼んだらしい」
意外だったが、納得もした。あれほど孫を溺愛している社長だ、そう言われれば仕方ないのだろう。
「そう、ですか」
お咎めなしの理由は分かったが、彼女がそうするように頼む理由は分からない。一体何を考えているのだ。
「書類、今週中に提出だから」
ヘラクレスはいつも以上にはねたくせ毛を指先でいじった。
今日は一日中この天気だとラジオは言う。うんざりしながら彼女が現れるのを待つ。
いつもよりやや早い時間に、しかし散々待たせた末にやってきた彼女は、サンダルを履いていた。自分で笑いながら履き直し、車に乗る。
学校に彼女を送りながら例の話を尋ねると、あっさり認めた。
「遅刻したのはルーイのせいじゃないのに、叱られるなんてやだよ」
「……すみません」
何も罰がないならそれに越したことはない。その点では感謝するべきだろう。女の子に助けられる自分を苦く思う。
「ううん、気にしないで! ……ねえ、身体、大丈夫?」
日常に支障はないがまだ痛む。だがありのまま言う必要はない。
「平気です」
「よかった。ごめんね、今日からは気をつける」
ワイパーを動かしても、フロントガラスはすぐに雨粒に覆われる。車の流れは遅い。早めに出て正解だった。
信号で停車したとき、いきなり彼女は窓を開けた。雨風が吹きこむ。面食らっていると、追いうちをかけるように叫ぶ。
「フェリ!」
それは彼女自身の名前ではないのか。混乱していると、今度はドアを開ける。
「乗って!」
すると、誰かが車内に飛びこんだ。ドアを閉めると同時に信号が青になり、ワンテンポ遅れて発進する。
「まじ助かったし。ありがとなー」
乗ってきたのは金髪を肩で切り揃えた少女だった。フェリシアーナと同じ制服を着ているので同級生だろう。
「こんなに雨の中を歩いてくつもりだったの?」
「傘あれば頭は濡れんし、泥がはねる前に走れば汚れないと思ったんよー。天才じゃね?」
何やら頭の痛いセリフをしゃべった少女は彼に気づき口をつぐんだ。彼女にくっつく。
「この人はルーイ、私のボディーガード」
少女にそう説明すると、今度は彼に向かって言う。
「でねルーイ、こっちはお友だちのフェリクス。小学校から同じバレエ教室に通ってるんだ」
少女は怯えるような警戒するような目でにらむ。そういう反応には慣れているので、運転に集中することにした。
彼女の身辺護衛を引き受ける前は、子どもの登下校に付き添う仕事もあった。物騒な昨今、誘拐や通り魔対策に警護を依頼する保護者は少なくない。
しかし、体格や顔立ちから、守る対象の子どもたちに怯えられてばかりだった。近隣の住民に通報されそうになったことすらある。
だから不思議でならない。
なぜ、彼女は怯えるどころか親しげに接してくるのだろう。なぜやたらに懐いてくるのだろう。
彼女という人物は、よく分からない。
放課後は昨日や一昨日と同じように稽古事に向かった。
水曜日の今日はピアノである。ビルの一室はそれらしく見えなかったが、中に入ると表通りの喧騒は聞こえてこない。防音はしっかりしているようだ。
奥から出てきた黒髪で眼鏡の男は、彼に座って待つように指示した。言われたとおりにすると、彼女を伴って奥に引っこむ。
「あら? 今日はフランシスさんじゃないのね」
トレイにカップを載せてやってきたのは、亜麻色の髪を流した妙齢の女性だった。気まずい気分で会釈をすると、柔らかな笑みを返してくる。
「代理のルートヴィッヒです」
「私はエリザベータ。……ってことは、彼の奥様は出産したの?」
「はい」
すると女性は顔を輝かせる。
「そうなの! もし会ったら『おめでとう』と伝えてくれるかしら?」
「分かりました」
「お願いね」
女性はカップと彼とを見比べて、申し訳なさそうに言った。
「てっきりフランシスさんが来ると思っていたから、紅茶にしたんだけど……他のにする?」
紅茶よりはコーヒー派だったが、好意で用意してもらったものに文句はつけられない。
「そのままで構いません」
「よかった」
紅茶の明るい褐色はフェリシアーナの瞳に似ている。そう思っていると、調子はずれの演奏が聞こえてきた。お世辞にも上手とは言いがたい。あのピアノ教師の演奏とは思えないので、彼女によるものだろう。
聞きなれているらしい彼女は苦笑する。ピアノ教師が注意する声が演奏に混じっていた。
「私、フェリちゃんの演奏が好き」
ときどき音が濁ったりテンポもまちまちなのに。そう思っていると、「技術面は全然ダメだけど」と彼の思考を読んだように言う。
「ローデリヒさんは厳しい人だから、ついていけなくて辞めちゃう人も多いのよ」
穏やかそうな顔を思い出す。芸に関しては妥協しない人物なのかもしれない。そう考えると、神経質そうなところもあった気がする。
「でも、彼女はどんなにしごかれても注意されてもめげないの。下手でもピアノを弾くのが好きだからなんだって。そういうところが演奏に出てるから」
耳を澄ます。たどたどしいメロディーラインだ。けれどきっと彼女はとても楽しそうにしているのだろう。その光景はとても容易に想像できた。
「分かる気がします」
「でしょ? 紅茶、冷めないうちにどうぞ」
まだ手をつけていなかったカップを持ち上げる。
口に含んだ紅茶はかすかに甘い。
天気予報は見事に的中し、夜になっても雨は止む気配がない。彼の目の前で数人が濡れた歩道に滑った。
出てきた彼女も案の定、転びかけた。昨日とは違い、一緒に転ぶことなく支えることに成功する。彼女は滑ったり落ちたり忙しい。
例の階段の直前で彼女は足を止める。
「どうしました」
「ちょっと、怖くて」
暗い上に雨まで降っている。昨日の二の舞にはなりたくないのだろう。
「ご安心ください」
ポケットを探り、懐中電灯を取り出す。少しは足元が分かりやすくなった。
「ありがとう」
明るい声が弾む。しかし彼が先に降りても、彼女は動かなかった。
「腕、つかまってもいい?」
「おそるおそる」を見事に表現した声が尋ねる。
「どうぞ」
うなずくと顔を輝かせる。細い手がしっかりと二の腕をつかんだ。
「わ、すっごい筋肉」
「鍛えていますから」
「そうなんだー」
ゆっくりと階段を降りる。昨日の記憶がよみがえるのか、足取りはずいぶん慎重だ。
「大丈夫です」
「……そうだね、だってルーイがいてくれるもん」
しかし指先から力は抜かない。不安からなのか、信頼からなのか、彼には判断がつかなかった。
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09/05/13