四日め



「今日はいつもより早めに迎えに来て」
 フェリシアーナは車に乗りこむなり言う。彼はうなずいて、「何かあるのですか」と尋ねた。
 今朝は二度めのコールで目覚めた彼女だが、カバンの中身を金曜日と間違えていた。完璧な朝を迎えることはありえないのではないかと、曇り空を見ながら考える。
「あのね、病院に行くんだ」
 いつも元気をみなぎらせている彼女にはそぐわない単語が出てきた。最近は元気すぎるがゆえの病気でもあるのだろうか。それともあの忘れっぽさか。
「どこか具合の悪いところでも」
「あ、私じゃないよ」
 彼女は楽しそうに笑う。
 否定されてほっとした。病弱であるよりは健康である方がいいのは言うまでもない。それに彼女が病魔に侵される様子など見たくはなかった。
「あのね、フランシス兄ちゃんの奥さんのところにお見舞いに行くの。『来てもいい』って言ってたから」
 彼の前任者のフランシスが一週間の休暇を取ったのは、妻が出産したからだった。ずいぶん仲よくしていたようだから、お見舞いに行きたいのだろう。
 彼自身、色々と世話になった先輩でもある。顔を見せるくらいはするべきだろう。
「姉ちゃんも行くみたい。アントーニョ兄ちゃんに送ってもらうんだって」
「分かりました」
 どっち似かなあ、きっと可愛いよねえ、名前何にするんだろう、と彼女は大はしゃぎだった。忘れっぽい彼女だが、放課後になっても覚えていることだろう。


「かわいい!」
「ちっちゃいんだな」
 ヴァルガス姉妹はフランシスの妻、ジャンヌが抱いた赤子を見て、目をきらきらさせる。いないいないばあをしたり、ほっぺを触ったりしている。
「こういう光景は癒されるなあ」
 アントーニョが目を細めて言う。しかしそれ以上にしまりのない顔をしていたのはフランシスだ。全身から幸せそうなオーラを発散させている。
「俺って世界一の幸せ者だな。美しい妻に可愛い子ども、これ以上の完璧はないね!」
 これが世に言う幸せボケか、となぜか感心してしまう。今なら何発か殴っても許してもらえそうだ。
「ルートヴィッヒ、お前も恋人作れよ」
「余計なお世話です」
 ムッとしたのはその言葉が耳に痛いからだ。
 人並みに初恋はしたし、「友人」以上に近しい者は何人かいた。けれどそれ以上に進展することはなく、会わなくなれば連絡も取らなくなった。
 誰であっても自分の中に他人がいるのは耐えがたかったし、疎ましかった。「知って当然」と詮索されるのにも辟易した。
 少しでも領域を侵されれば、まるで子どものように全力で締め出した。相手の傷ついた顔は良心を痛めたが、それよりも自らの平穏を選んだ。
「ホントに可愛い」
 フェリシアーナの声で我に返る。彼女はとろけそうな表情で赤子の小さな手を握っていた。隣にいるロヴィーナも笑みを隠しきれないようだ。
「抱っこしてみる?」
「いいの?」
「ええ。首がまだ据わってないから気をつけてね。あと、頭には触らないで」
「分かった」
 嬉しさを前面に押し出した表情に緊張が走る。おずおずと出した腕に、産着にくるまれた赤子が乗った。
「ひゃ、軽い」
「これからどんどん大きくなるわ」
「落とすなよ」
 子を抱き満面の笑みを浮かべるさまは、彼女も女なのだと意識させた。子どものようでも、生命を産むことができると。
 フランシスに目をやると、不安そうな、愛でるような、幸せそうな、ごったになった表情をしていた。父親の目から見れば、心和みつつも冷や冷やする光景だろう。
「姉ちゃんも」
「え。わ、分かった」
 ロヴィーナは妹よりもガチガチに緊張して抱き止める。抱くこと自体に精一杯であるようで、はたから見ていても不安を誘われる。フランシスはますます顔を強ばらせた。
「かわええ〜、ロヴィ、俺ともこんな子ども作ろうな!」
「なっ何言ってんだ! アホ!」
 真っ赤な顔だが、よく聞けば拒絶ではない。照れくさいだけだろう。二組の恋人たちに当てられてため息をつく。先輩とはいえ、ノロケならよそでやってほしいのが本音だ。
 フェリシアーナは楽しそうにアントーニョと姉のやり取りを見ていたが、ふと顔を曇らせた。見間違いかとまばたきをすると、普段どおりの顔だ。
 やはり気のせいだったのだろうか。だがどうしても否定しきれず、疑問として心に黒点を落とした。


 病院に行ったあとは姉妹そろってのスイミングがあった。
 アントーニョとともに二階のギャラリーで待機する。消毒液くささを感じるのは一昨日と変わらない。
「二人ともイルカみたいや」
「そうですね」
 まじまじと見るアントーニョとは対照的に、彼は一昨日と変わらずプールに背を向けていた。
「見いへんの?」
「女性のあられもない姿を凝視するのは、ちょっと」
「固いなあ。ちょっとくらいええやん」
 断固として首をふる。女っ気のない生活を送る彼には目の毒にしかならない。
「二人ともほんまかわええ。甲乙つけがたいなあ」
 ノーコメントを決めこむ。アントーニョは気にせずに一人で騒いでいた。他に人がいないからいいものの、他人がいたら不審がられることだろう。
「でも一番はロヴィやなあ。なんてったって俺の恋人やもん」
「……そのことで、聞きたいんですが」
 一瞥をよこす。緑の瞳の行き先を追うのはやめた。
「どうしてそういう関係に?」
「んー、俺にもよう分からへんけど」
 水音が高い天井に反響してくぐもる。なぜか深海にいると錯覚してしまう。
「俺を頼ってくれるのが嬉しかったんや。あんなに強情で意地っ張りやのに」
「それで?」
「せやから俺も、信頼に応えなあかんと思って。それが始まりやろな」
「そうですか」
 分かったような、分からないような。そんな心境でうなずくと、アントーニョが突然吹き出した。
「よりにもよってお前にそんなこと聞かれるとは思わへんかったわー。どないしたん、フェリちゃんを口説きたいん?」
「そんなことしません」
「分かるで、フェリちゃん素直でかわええもんなあ。男として放っておけんわなあ」
「違います」
「いいんや隠さへんでも。きっとフェリちゃんもまんざらでもないと思うで。よう懐いとるもん」
「人の話を聞いてください!」
 怒鳴ると同時にホイッスルが鳴り響いた。
「おー、終わったみたいやなー」
 アントーニョは怒鳴られたことを気にする様子はない。のんきに言って立ち上がる。一人相撲がバカらしくなり、彼も後についた。一階に降りてしばらく待つと姉妹がやって来る。水のにおいが強くただよう。
「お疲れさん」
「喉が渇いたぞ」
「はいはい。フェリちゃんもなんか飲む?」
「じゃあオレンジジュース」
「りょーかい。ちょっと待っててな」
 フェリシアーナは髪をおろし、首にスポーツタオルをかけていた。髪からぽたりと雫が落ちる。
「お嬢様、風邪をひきますよ」
「大丈夫だよこれくらい」
「駄目です」
 タオルを取り、髪をはさんで水分を取る。細心の注意を払った。うまくいっているのか、痛そうな表情はしない。大人しくされるがままになっていた。
 柔らかな茶髪が拭くたびに輝く。一本一本が細く、うっかりすると絡まってしまいそうだ。
「買うて来たでー」
「わーい」
 彼女はすぐにも行きたそうに跳ねるが、まだ乾いていないので肩をつかんで引き止める。そうしていると、変な視線を感じた。その源はアントーニョだ。口をだらしなく緩め、目を弓なりにしている。
「ええやんなあ」
「違います!」
「なんのこと?」
 ギャラリーでの会話を知らない彼女は無邪気に尋ねる。「実はなー」とニヤニヤして教えようとする男の額を指先で弾く。
「でこピンすることないやん」
「先輩が余計なことを言おうとするからです」
「俺はただ協力しようと思っただけやのにー」
「いりません」
 彼とアントーニョのやり取りを見て、彼女は首をかしげた。


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09/05/14