五日め
五日めは今までの四日間とは何もかもが違った。
朝の電話はワンコールでつながった。そればかりか普段よりも十分早く彼女は家を出てきた。恒例となった持ち物確認も全て揃っていた。リボンもちゃんと首にあった。
雲一つなく澄み渡る今日の空のように、全てが完璧だったのだ。
「私だってやればできるんだから!」
不安になるほどの完璧さだった。実は天変地異の前触れなのかもしれない、と口には出さないまでも思ってしまう。
しかし槍が降ることも海が割れることもなく時間は流れた。
昨日アントーニョに待機中の時間に何をしているのかと問うたところ、「学校内を散歩している」との返事がきた。校内立入許可証があれば何も言われないらしい。
ずっと車内にいるのも退屈なので、彼も気晴らしに学校敷地内を歩き回ることにした。今は彼女が体育をしている時間であることを思い出して、足を向けてみる。運よくグラウンドを一望するポイントに出た。
「そっち行った!」
「ガードして!」
少女たちの声がグラウンドに響く。土を巻き上げながら、たった一つのボールを足で奪い合う。
容易にフェリシアーナを見つけられた。器用に相手をかわし、仲間にパスをつなげる。だが、いいところでボールを奪われ、ゴールを決められた。
体育教師のホイッスルが鳴り響く。ちょうどハーフタイムに入った。
タオルで汗を拭った彼女は、彼に気づき、大きく手を振った。反応しないわけにはいかず、かと言って同じ動作をするのはためらわれた。
とりあえず手をあげて見せると、彼女は振っていた手を口に持っていく。
「見ててね、私、がんばるからー!」
すると後ろにいた少女が彼女に何やらささやいた。記憶に違いがなければ、前、車に乗せているはずだ。
試合開始のホイッスルが鳴る。彼女は早速ボールを我が物にし、どんどん攻めていくが、ゴール目前にしてボールを奪われた。
しかし、さっきの少女がすかさずボールを奪う。そしてゴール間際に移動していた彼女につなげた。
ああ、と感心する。どうやらわざと奪わせたようだ。巧妙だが、タイミングと息が合わなければ難しい。
彼女がゴールめがけてボールを蹴ろうとしたまさにそのとき、横から敵チームのスライディングが入った。
あっと思う間もなく彼女は体勢を崩す。倒れるまではひどくゆっくりに見えた。
ホイッスルが空気を切り裂く。
「フェリ!」
「大丈夫?」
全速力でグラウンドまでおりる。体育教師が人垣の中心で彼女に話しかけている。体育着と顔が砂で汚れていた。
「平気が?」
「はい。……あ、ルーイ」
彼に気づいて声をあげる。体育教師と目が合った。
「おめえ誰だ」
訛りの強い言葉に困惑する。眼鏡の奥から警戒の視線が注がれる。
「ベールヴァルド先生、彼は私のボディーガードです。怪しい人じゃありません」
「そっが」
「ごめんなさい、こんなつもりじゃなかったんです」
スライディングしてきた女生徒は青ざめていた。ウェーブのかかった金髪を肩までのばし、前髪が一房だけくるんとなっている。
「気にしないでよ。大丈夫だから」
「フェリ、保健室に行った方がよくね?」
「んだべ」
「そうだね。何もないと思うけど、一応行っとく」
少女は今にも泣きそうな顔をする。
「本当にごめんなさい」
対して彼女は明るい笑みを浮かべ、少女の肩を叩いた。
「平気だってば。じゃあ今度何かおごってよ」
そう言われて罪悪感が薄まったのか、相手もつられたように笑む。
「はい……」
立ち上がろうとする彼女を抱き上げる。きゃあっ、と歓声のような悲鳴のような声が周囲から上がったが気にしないことにする。
「保健室に連れていきます」
「ん。すまねぇなぃ」
彼女に保健室の場所を問うと、指を差す。その方向へなるべく揺らさないように歩いた。
「痛いところはありませんか」
「平気だよ。下ろしても大丈夫。それにスーツが汚れちゃう」
「いえ、着くまでは」
保健室のドアを開ける。薬品くさい独特の臭気が鼻をついた。「どうしましたかー」とのんびりした様子の女性がやってくる。
「あら、ヴァルガスさん。……と、そっちは」
「身辺護衛のルートヴィッヒです」
「そうですかー、私はティナです。どうしたんですか? ケガでもしましたか?」
「体育でサッカーしてたんだ。っていうかルーイ、もう下ろしてよ」
保健室の椅子に下ろす。彼女と養護教諭は痛いところや気分の調子について話していた。
「平気だよー。みんながあんまり心配するから、一応来ただけだもん」
「そうですねー、見た感じ特に危ないところはないみたいです。でも後から気分が悪くなったり内出血したりすることもありますから、そのときはちゃんと手当てしてください。とりあえず残りの体育の授業は見学しましょう」
彼女は素直にうなずいた。お礼を言って立ち上がり、「あっ」と声をあげる。
「どうしましたかー?」
「え、えっと、……ベールヴァルド先生とは仲良くやってるの?」
養護教諭は顔を真っ赤にする。言葉を途切らせ、否定するように手を振った。
「そんなんじゃないですよー!」
放課後、校舎から出てきた彼女はどことなく動作が鈍かった。いつもは彼の姿を見るなり駆け寄ってくるのに、今日は普通に歩いてくる。
学校を出て少し走り、道幅の広いところで路肩に停車する。後ろから「どうしたの」と声がかかった。
「お嬢様、足を見せてください」
「え」
「痛めているのでしょう」
少しの間の後に、小さな肯定。彼女は靴と靴下を脱いで足首を見せた。赤紫に腫れている。靴下を着けたままだったからあの養護教諭は気づかなかったのだろう。
「なんで分かったの」
「足をかばう動作をしていましたから。本当は最初から痛かったのでしょう」
「うん。歩くと余計痛くて」
保健室で椅子から立ち上がったときの声は痛みから思わず発してしまったものだろう。車から降り、トランクから救急箱を取り出す。後部座席のドアを開ける。
「なぜ言わなかったのです。手当てしていれば、ここまでひどくはならなかったはず」
彼女は足首に触るだけでも顔をしかめる。それなのに我慢していたというのだから、呆れるというか、感心するというか。
「あの子を悪者にしたくなかったから。ケガさせたこと分かったら、絶対気に病むもん」
はっきり言えば彼女はどんくさい性格だが、そういう気は遣えるらしい。友人を車に乗せたのも同じなのだろう。
湿布を貼り、包帯を巻く。白い足と清潔な包帯は色がよく似ていたが、なおさら痛々しい。
「……それに」
彼女はうつむいていた。両手はスカートを握りしめている。
「みっともないよ。ルーイにいいところ見せたくて無茶して、挙げ句の果てにはケガなんて。呆れられちゃうと思った」
意外な言葉に手を止める。前髪に隠れて顔は見えないが、涙が濡らしていた。
再び見た涙にたじろいでしまう。震える唇が弱々しく動き、言葉を発した。
「せっかく今日の朝は完璧にできたのに、自分でぶち壊しにしちゃうなんて」
むせび泣く彼女にどうすればよいのか分からなかった。とりあえずハンカチを出して、不器用に頬をぬぐう。
「私っ……バカみたい……っ」
小柄な身体が何度もしゃくる。拭いても拭いても新しい涙がこぼれてキリがない。
「お嬢様はそのままでいいのです」
「で、でも、こんなに手間がかかるし、バカだし、忘れっぽいし、それに」
言い募ろうとするのをさえぎって言った。
「それでいいのです」
うるんだ褐色の瞳が見上げてくる。目をそらさずに、見つめた。
「私はありのままのお嬢様が好きです」
「ルーイ」
驚いた声を聞いたと思った次の瞬間には。
「私も大好き!」
腕の中に華奢な身体が飛びこんでくる。茶色の頭が勢いよく胸にぶつかって呼吸が詰まった。身体を押しつけられて、やわらかな膨らみを嫌でも意識してしまう。
「お、お嬢様っ」
「ルーイムキムキー、あったかーい」
背中をさわさわと撫でられる。形容できない感覚が全身に走った。これ以上の触れ合いは危ないと直感が告げている。しかしどうやって引き剥がせばいいのか。
彼女から甘い香りが漂う。きついものではなく、むしろやわらかくて掴みどころのないものだが、頭がくらくらする。一種の拷問だ。
数分後、満足したフェリシアーナが解放したときには、彼はずいぶん疲れた顔をしていた。
華道の稽古の時間は、習っていないにも関わらず気が引き締まる思いだった。
以前琴を弾いていた少女が淹れてくれたお茶を飲みながら、終わるのを待つ。池の鯉や庭の松や雲の流れをぼんやりながめた。
「では、今日はここまで」
「ありがとうございましたー。ルーイ、帰ろー」
「はい。忘れ物をなさらないでください」
うなずくと、師範はくすりと笑う。何を笑われたのか分からずに見つめると、なおさら笑みを深めながら言う。
「お二人とも、月曜日にいらしたときに比べて、ずいぶん打ち解けていらっしゃるんですね」
自覚がないのでそう言われても戸惑ってしまう。隣で彼女がなぜか自慢げに胸を張った。
「でしょー? ルーイすごいんだよー、私が足痛いのも気づいたし!」
「そうですか」
ますます胸をそり返してさらに続ける。
「それに、私のこと『好き』って言ってくれたー!」
「おやおや」
師範は驚いたような感心したような揶揄するような目で彼を見る。
今この瞬間なら羞恥で死ねると彼は思った。むしろ死にたいと思った。
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09/05/15