六日め



 甘い香りがふわりと漂う。腕時計を見てもうすぐお昼時であることを知る。反射的に空腹を覚えても無理からぬことだった。
 今日は土曜日だが、今日も彼は彼女とともに高校に来ている。彼女の所属している調理部の活動があるからだ。
 車で待機していようと思っていたのだが、彼女に止められた。今日は昨日に引き続いての快晴である。熱中症になることを心配されたのだ。休日だから部外者の立入も厳しくない、と続けられれば断る理由はなかった。
 調理室にいるのはいいものの、特にすることがないのは同じだ。手持ちぶさたで、彼は窓から外を見ていた。
 校庭ではめまぐるしいボールの奪い合いが繰り広げられている。一番よく響く声援はアントーニョのものだろう。ロヴィーナはサッカー部である。
「仕上がりはどうでぃ?」
 顧問の男性教師が尋ねる。調理部の顧問が男であることに最初は驚いたが、調理中の腕裁きは見事だった。生徒の質問にもすらすらと答える。
「うまくできましたわ」
 短い金髪の少女が答えた。たたずまいは凛として、気品を感じさせる。焼いている間の会話から察するに、フェリシアーナの後輩であるようだ。
「じゃー早速食べちゃいましょうよ!」
 楽しげな表情で言ったのは黒髪をツインテールにした少女だ。日に焼けていかにも活発な印象を与える。調理中に一番ヘマをやらかしていた。
「私もうまく焼けたよー」
「見せて見せてー」
 フェリシアーナの言葉に全員がのぞきこむ。わっと声があがった。
「さすがだな」
「お上手ですわ」
「うん、すっごく美味しそう」
 口々に褒められて彼女は満面の笑みを浮かべる。
「えへ、私もそう思うよ。今までで一番うまくいったかも」
 開いた窓からホイッスルの音や号令が聞こえてくる。サッカー部の方は終わったようだ。
「それではお茶にしましょうか」
「うん。私が淹れるよ」
 黒髪の少女はそう言ってティーセットを取る。調理中は危なっかしい手つきだったのに、カップを暖めたりするところにはたどたどしいところがない。ずいぶん慣れているのが見て取れた。それに本格派だ。
 ドタバタと騒がしい音がして調理室のドアが開いた。現れたのはロヴィーナである。ユニフォームもそのままで、膝は砂にまみれている。
「腹減った。なんか食わせろ」
 その後ろからアントーニョがひょいと顔を出す。彼も同様のことを口にした。
「なんでぃ、俺らは喫茶店やってんじゃねえやぃ」
「人が多いほうが楽しいですわ」
 あきれた様子の顧問を、金髪の少女がとりなす。
「私もそう思うなー。みんなで食べる方がおいしいよー」
「そうですよサディク先生」
 生徒たちからツッコミを入れられて顧問はたじたじだった。その気持ちはよく分かるので、彼はひそかに同情の視線を送る。
「姉ちゃんたち、こっちこっち」
「おおきにー」
 乱入者二人はごく自然にテーブルにつく。フェリシアーナは彼の方に振り向いた。
「ルーイも食べようよ」
「いえ、私は」
「甘いものは苦手?」
 残念そうな表情をつくる。アントーニョはそんなことあらへん、と本人でもないのに否定した。
「こいつ、見かけによらず大の甘党やで。いちご牛乳を飲んでるのを見たときはヒいたわあ」
「え……ルーイが? こんなにムキムキでゴツゴツなのに?」
「そうそう、あんなに男くさくて趣味は筋トレの……痛っ」
 彼はペラペラと個人情報を吐く先輩の後頭部を殴った。相手は先輩だが、手加減できたかどうかは定かではない。
「座って」
 椅子を示される。大人しく従った。完成したものをもらえることを期待していなかったといえば嘘になる。
 たった今焼きあがったばかりの甘味が皿に載ってやってくる。クッキー、タルト、パイ、種類は豊富だ。少し形がいびつなものも、逆にハンドメイドの雰囲気があふれて微笑ましい。
「紅茶をどうぞ」
 黒髪の少女はカップに紅茶をそそいでまわる。しかし何が気になるのか、落ち着かない様子で調理部の入り口にちらちらと目線を送っていた。
「どうしたの」
 フェリシアーナが問うと、眉を寄せて困った表情をする。彼はカップが人数分よりも一つ多いことに気づいた。
「あの、えっと」
「間に合ったか?」
 開けっ放しになっていたドアから声がかかった。全員の視線が一気に集まる。
「げ、カークランドの野郎」
 心底嫌そうな声を出したのはロヴィーナである。
 新しい客は黒いジャージを着ていた。金髪はかすかに濡れている。少女がほっとしたように息をついた。
「アーサー先生……」
 少女の視線に気づき、男は指を突きつける。白い肌はわずかに赤い。
「勘違いするなよ! 別にお前の作ったものが食べたいんじゃなくて、ただサッカー部の指導で疲れたから、何か食いたくて来ただけであって」
 誰も聞いていないというのに、なにやら長々と言い訳をはじめる。調理部顧問はそれをさえぎって黒髪の少女の隣に男を座らせた。
 少女が紅茶を淹れる手つきはやけに丁寧だ。余分なカップの使い道は二人以外の全員に知れていた。
「それじゃあ、食べようか!」
 フェリシアーナの一言で各々が目当ての品を手に取る。食事だけでなく会話も弾む。
「その袋何ー?」
「お兄様に差し上げる分ですわ」
「調理部はもう一人いなかったか? 金髪のカチューシャしてるのが」
「そいつは兄貴のサッカーの大会の応援で休みだぜぃ」
「どう、飲める紅茶でしょ!」
「まあまあだな」
 近くにあったクッキーを取ると、隣に座る彼女がじっと見つめてきた。いぶかしく思いながらも口に運ぶ。紅茶で飲みこんだ。
「美味しい?」
「はい」
 彼女は顔を輝かせる。唇が柔らかな笑みを作った。
「よかった。『マズイ』って言われたらどうしようかと思った」
 どうやら彼女が作ったものだったらしい。もう少し味わえばよかったか、と思っても遅い。せめて口に残った甘さを堪能するしかない。
「私、いいお嫁さんになれそうかな?」
 なぜかヒヤリとする。深い意味はない、と自分に言い聞かせた。
「なれると、思いますよ」
「嬉しい」
 はにかむ顔を直視できず、紅茶をもう一口飲む。
 クッキーの糖分がまだ残っているのか、ピアノ教室で飲んだものよりも甘く感じた。

 まだ痛むのか足をひきずる彼女に合わせて車までもどる。運転席に座って時計を見る。塾の時間までは数時間あった。
「ご自宅に戻られますか」
 塾の用意はしてあるが、尋ねてみる。家に戻ってからでも間に合う。
「ドライブしようよ。時間つぶしに」
「行きたいところはありますか」
 彼女はちょっと考え、答えた。
「混んでないならどこでも」
「分かりました」
 イグニッションキーを差込み、エンジンをかける。今の時間帯で混んでいなさそうな道と、塾までの道のりを頭で重ねる。大体の進路を決めて、ステアリングを握った。
 ラジオからは軽妙なトークと流行の曲が流れる。車は渋滞や信号に捕まることなく進んで行く。
「ねえ、ルーイ」
「はい」
 信号で一時停止した。シフトレバーに手をかけながら返事をする。
「明日で、もう、お別れなんだね」
「……そうですね」
 それ以外に返事が浮かばなかった。
 初日にはあれほど待ちわびた終わりが近づいているのに、もやがかかる。それは明らかに喜びではなく、そんな自分に戸惑う。
「残りちょっとだけど、よろしくね」
「はい」
 信号が青になった。シフトレバーをドライブに入れてアクセルを踏む。
 次に信号で止まったときにバックミラーを見ると、彼女は寝ていた。


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09/05/16