七日め
長かった一週間も、今日が最後だ。
ようやく終わる、という解放感と名残惜しさが同居する。彼はその感情に戸惑った。
彼女とは契約関係にあるだけだ、と自分自身を戒める。関係につりあわない感情を持つのは褒められたことではない。そんなたゆみを自分に許したくなかった。
「お嬢様、今日のご予定は」
居間のソファーに腰を下ろしてくつろぐ彼女とは対照的に、彼は微動だにせず立っていた。
本当なら日曜の今日はバレエがあったのだが、彼女が足を痛めたために休みを取った。日曜日には塾がないため、ぽっかりと一日が空いてしまっている。
「特にないけど、せっかく今日は晴れてるのにお家にいるのはもったいないね」
彼女の言うとおり、外は雲一つない快晴だった。彼も仕事がなければランニングしていただろう。
「今日はショッピングに行こうかな」
「かしこまりました。車を用意してまいります」
彼女は不満をあらわにする。表情だけで感情がよく分かる。
「えー、いいお天気なんだから歩くよ」
「足がひどくなりますよ」
「でも」
しつこく言い募る。まだ包帯のある足首が気になった。治りかけに無理をするのはよくない。
「ちょっと歩くくらいなら平気だよ。それにあんまり車に乗りすぎると運動不足になっちゃうし、環境にもよくないよ」
どう聞いても詭弁だったが、変に意地っ張りなのが彼女だ。それはこの一週間で学んだ。言っても聞かないだろう。あきれながら承諾する。
「分かりました」
「ホント? じゃあ支度してくる。玄関で待ってて」
彼女は楽しそうに鼻歌を歌いながら二階に上っていく。言われた通りに玄関で待つこと数分、上機嫌でやって来た。
白いスカートが膝の遥か上で揺れる。トップスは紺のチェックが入ったチュニックだ。襟ぐりが大きく開いている。一言で表すなら、全体的に露出度が高い。女性の肌に免疫のない彼は目をそらした。
その間に彼女は編み上げのブーツをはいた。目線があがる。足首の包帯が隠れた。
「行こうか!」
「はい」
ブティックでは苦難が待ち受けていた。
「どう?」
彼女は右手に持った服を身体に当てる。チャコールグレーに鮮やかで精緻な刺繍がほどこされている。
「よくお似合いです」
「じゃあこっちは?」
今度は左手の服だ。寒色系のストライプが並んでいる。
「よくお似合いです」
「ちゃんと見てるのー?」
見てはいる。しかし、服の違いによるイメージの違いが彼には分からないのだ。
布一枚変えたところで着ている本人自体は何も変わらない、というファッションそのものを否定する感覚がある。
「ねえルーイ、私は何色が似合うかな? どんな色でも、っていうのはナシだよ」
先手を取られて言葉につまる。色々考え、無難に行くことにした。
「黄色、だと思います」
「なんで?」
「……明るいイメージがあります」
羞恥と戦いながら答える。人前でなければ顔を押さえてかがみたい。今まで誰にもこんなことを言ったことなどなかった。
「じゃあ黄色いのを探してくる」
店員に話しかける彼女を目で追い、ため息をつく。六日間で、彼女について分かったことと分からないことがある。
分かったことは人懐こい性格であること、泣き虫であること、分かりやすい性格であること。
だがそれ以上に分からないこともある。
無骨な外見から女子どもにはかなり怖がられてきた。それなのに彼女は好んで寄ってくる。「ルーイ」と楽しげに名を呼び、あっけないほど簡単に彼の領域を侵す。
一番分からないのが、なぜかそれを腹立たしく思えず、むしろ自然に受け止めてしまっている自分自身だった。いつもなら誰であろうと有無を言わせず追い出していたのに、彼女だけは容認してしまう。拒むことができない。
これは彼女だけが要因だろうか。彼にも何かあるのかもしれない。
……馬鹿馬鹿しい。彼女は雇用主でおまけに社長の孫娘だ。邪険に扱うわけにはいかない、それだけだ。特殊な感情が根底にあるわけではない。そうであるはずだ。
「ルーイ、見て見て!」
いつの間にか彼女は服を試着していた。黄の布地に、花びらの形に色とりどりの布が縫い付けられているワンピースだ。彼女がくるりとまわると布の花もゆれた。まるで彼女自身が花のように見える。
「可愛い?」
一番聞かれて困る質問だったが、先ほどの服よりは彼女に似合っている。それを「可愛い」というのなら、その通りだと思った。
ぎこちなくうなずくと、笑みを輝かせる。
「ホント? じゃあ買っちゃお」
彼女はためらいなく高額紙幣を出す。
『よくも悪くも「お嬢様」なんだから』
フランシスのセリフが思い出された。確かにそうだ。優雅で、華麗で、穢れを知らず。
そんな調子であちこちを引っぱり回され、ようやく彼女が帰宅を決めたころには、もう夜はとっぷりと暮れていた。購入した商品を持たされるのはもちろん彼である。両手一杯に紙袋をぶら下げている。
彼女はと言うと、開いた両手でジェラートを口に運んでいる。チョコとヴァニラとストロベリーの三種だ。もはや何を言う気も起こらず、彼は黙って彼女の後をついていく。すこし疲れていた。
「今日はすっごく楽しかったよー」
彼女の「楽しい」が彼の「疲労」であるのは言うまでもない。今日一日で一生分の褒め言葉を使ったかもしれない。
女のショッピングに付き合うのが、神から下された男の贖罪なのではないかとすら思えてくる。
「ありがとうルーイ」
けれど彼女のその一言が、疲労を心地よくする。
「いいえ」
この七日間、慣れないことばかりだったが、悪くはなかった。その締めくくりが今の言葉なら妥当な報酬だ。
「これってデートだよね」
「……」
ずり落ちそうになった紙袋を戻す。動揺したと気づかれたくなかった。
夜のしじまに二人分の靴音が響き渡る。時計の秒針の音に似ている。残された時間を計りながら削っていく。彼女が家に到着して、「バイバイ」とドアを閉めれば、多分二度と会うことはない。
さびしい? いや、そんなわけはない。彼女と会ったのは最初からビジネスだ。ビジネスに感情などいらない。
捕らわれれば逃げられなくなる。だから今まで誰とでも距離を置いてきたのだ。特別な愛着を持たぬように。
「あっ、ブランコ!」
公園の横を通りがかるなり、彼女は喜びいさんで駆け出す。残りのジェラートを一口で片付けた。
街灯の頼りない灯りに浮かび上がったブランコに乗ると、楽しげに漕ぎ出す。普段なら耳障りでしかない金属音も、今は気にならない。
時計に目を落とす。夜光塗料で青白い針は、日付が変わるまで数時間であることを告げていた。彼がいるとは言え、不穏な時間帯であることは変わりない。
「お嬢様、あまり遅くなると社長が心配なさいます」
「しないよ。だって爺ちゃんはまだお仕事でしょ。……いつもお家にはいないもん」
今にも消え入りそうな、彼女らしくない声だった。
「お嬢様」
強めに言うと首をすくめる。だがまだブランコから降りようとはしない。遠くを見つめる細面には、数日前に垣間見た曇りに満ちている。疑問の黒点がちくりとうずいた。
「一週間、私、楽しかったよ。お兄ちゃんかお父さんができたみたいで」
静かな声に思い出す。彼女と彼女の姉は、両親と祖母を事故で亡くしていた。それ以来ずっと、あの広い家に姉妹二人で。
キイコ、キイコと金属がきしる。いつか音を立てて切れてしまいそうだ。
「ルーイ、最後のワガママを聞いてよ」
「なんですか」
白いスカートが、暗闇に溶けそうな残像を残す。ひらひらとして蝶のようだ。手をのばせばすり抜けていく。
「あのね――」
言葉をさえぎるように電子音が鳴る。彼女は慌てて止まり、携帯を取り出した。
「もしもし……あ、姉ちゃん。……今? ルーイと公園に……分かってるよ、もう帰るってば」
会話は大体予想がつく。あまりにも帰宅が遅い妹を心配して姉が電話をかけてきたのだろう。しかめ面で彼をにらむ姿が浮かんだ。なんだかんだ言っても妹は可愛いのだ。
「うん……うん、じゃあね」
通話を切ると立ち上がる。途端に「いたっ」と小さく声をもらした。
「どうしたのですか」
「ちょっと、足が」
だから言ったのに。彼はかがんで背を向けた。紙袋が地面につかないように注意を払う。
「乗ってください」
「え」
「負ぶいます」
「でも」
「無理をなさらないでください」
分かった、と声がして、腕から下げた紙袋が引かれた。
「私が持つよ」
「ですが」
「いいから。これくらいはしなきゃ」
紙袋を持った彼女を背負う。袋の角が当たって痛いが黙っていた。
特に会話のないまま足を動かし、住宅街の中でも抜きん出て大きい邸宅にたどりつく。
「ここまででいいから」
門扉の前で立ち止まる。かがんだが、彼女は下りない。
どうしたのかと思っていると、白く小さな手が頬を包む。彼女は顔を寄せると、唇を彼の頬につけた。そして吐息まじりの言葉をささやく。
「!?」
何が起こったのか分からずに混乱する彼をよそに、彼女は身をひるがえし玄関へと駆ける。足を痛めた動きではない。
玄関のドアが閉まる一瞬、視線が絡んだが、すぐに切れた。
「……」
彼は呆然とその場に立ち尽くす。
彼女の囁きが耳をかけめぐり、止むことはなかった。
こうして、彼の長い一週間は、終わった。
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09/05/17