エピローグ



 新しい依頼人が決まった。しかも専属だ。顔合わせは明日。
 前触れもなくそう告げられ、ルートヴィッヒは淡々とうなずいた。
 対象が誰であれ、専属護衛になるというのは大任だ。かなりの経験と知識が要求される。まだまだ新米の彼がなるというのは、異例の大出世だった。
 同期たちは羨望と嫉妬の入り混じった表情で彼を祝福したが、彼は喜びも誇りも覚えない自分に気づいていた。せっかくの好機を蹴ろうとすら思った。
 ――あの一週間から、すでに何ヶ月か経っている。
 今回の話を聞いて真っ先に彼女を思い出した。忘れっぽくて陽気で笑顔の可憐な彼女を。
 馬鹿らしい執着だとは我ながら思う。彼はただのつなぎだったのだ。他に経験も知識も豊富な適任者がいればそちらが選ばれるに決まっている。
 要するに、彼はどこまでも公平で公正な選抜のみじめな敗者だった。
 彼女は最初から手の届かない人物だ。あの日々は夢のようなものだ。身のほどを知らなければならない。現実を見ろ。目を覚ませ。
 頭では分かっていたが、あの夜のひそやかなささやきが今も忘れられずにいる。それは彼に愚かな期待を抱かせる。まるで呪縛のように。
 今は心のどこかにしまっておこう、と自宅のベッドで横になって考える。寝床は適度に暖かく、疲労もそれなりにあるのに眠気はやってこない。
 忘れることなどできないことは薄々気づいている。だが、それを引きずっては新しい依頼人に失礼だ。だからとりあえず、どこかに押しこめておけばいい。いつかきっと押し出せるときが来る。
 ふと、胸に苦いものがよぎる。
 誰も自分の領域に立ち入らせたくない、とかたくなだったのは、他ならぬ彼自身だ。
 それなのに今は彼女を思い出すための余地を作っている。これを矛盾と言わずして、なんと言おうか。
 意志薄弱な自分が心底嫌になった。そして彼の何かを変えてしまった彼女が、少しばかり恐ろしくもあった。

 あまり眠れないまま出社した。相手は昼過ぎにやってくるという。
「お前も出世したもんだな」
 食堂で昼食を摂っていると、フランシスが気安く彼の肩を叩いてきた。最近はめっきり親バカになり、ことあるごとにわが子の可愛さと愛妻家ぶりをアピールしている。以前より面倒見がよくなった、と同期の間では言われている。
「先輩に敬意を払って、今度なんかおごれよなー」
 この男が言うと嫌味もそれらしくない。それは人生経験の差から来るのだろう。
「時間があったら」
 何か違和感を覚えながら答えた。
 それから迷って口に出す。
「……彼女は元気ですか」
「ああ、ジャンヌは元気だぞ。妊娠前の体形に戻すってがんばってる」
「いや、そっちではなくて」
 すると相手はにんまりと笑う。今のはわざとだったのだ。
「フェリシアーナのことだろ? 毎日元気に学校に行ってるよ」
 安心したのか自分でも分からずに息をつき、そうですか、と返した。
「なんだ、気になってんのか」
「……少しは」
 正直に答えるとフランシスはますますニヤニヤする。不愉快さと気恥ずかしさで顔をしかめた。「こわいこわい」と演技がかった口調で言うと、どこかへ行ってしまう。
 元気、という言葉を口の中で転がしてみる。
 それならいい。彼の出る幕はない。あのお気楽な調子でいつまでも笑っていればいい。
 こみ上げる感情と直面しないように、無理に口へ食べ物を詰めこんだ。味はよく分からない。水で無理に飲み下す。
 時計を見ればそろそろ顔合わせの時間だった。

 時間を過ぎても依頼人は来ない。
 退屈と戸惑いを持て余し、宙を仰ぐ。ネクタイをかすかにゆるめた。
 フランシスと会話したときの違和感がなぜかぐるぐると渦巻いている。何かが気にかかってしょうがないのに、それがなんなのかが分からない。消化不良で気持ちが悪い。
 キィ、とドアが軋む音がして、慌てて居住まいを正す。受付嬢に導かれて、依頼人と思しき人物が入ってくる。
 服の黄色がすぐに目に飛びこむ。カラフルな布が花びらの形に縫いつけられている。その人が歩くと、ふわりと揺れた。
「……」
 口が、きけなかった。
 ほんの数ヶ月まで間近に見ていた顔が、記憶とたがわずに笑みをつくる。
「ルーイ」
 呼ぶ声も覚えているそのままだ。
「おじょう、さま」
 しぼり出した声がかすれた。彼女はうなずき、細い腕で彼を抱きしめた。
 彼の腕は行き場を求めてさまよう。抱きしめ返すことはできず宙をかく。
「……どうして」
「だって、言ったでしょ」
 きらめく瞳が細められる。笑うように、からかうように。
「『またね』って。忘れた?」
 思い起こす。頬にふれた唇。そして耳元に残された言葉。それは再会を約束するものだった。聞き間違いかと疑った言葉だ。
「いいえ」
 首を振ると、彼女は「よかった」と安堵の息をもらす。きつく抱きしめられて身体が密着する。たじろいでしまう感情の動きも、鼻腔に流れこむ香りも、全てが懐かしい。
「会いたかった。ルーイ、大好き」
 笑っていたかと思えばいきなり声を震わせる。ポケットを探ったが今日に限ってハンカチがない。仕方がないのでシャツのそでを使った。
「ねえ、これからも守ってくれる?」
 期待と不安を同居させた声が耳に心地よく響く。憂える顔をまっすぐに見つめる。
「もちろんです」
 うなずいて、力強く断言する。
「私はあなたのナイトなのですから」


[前編・完]


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09/05/18